享禄元年(1528年)、美濃国明智城城主・明智光隆の子として生まれたといわれている。しかし、その前半生は明らかになっていない部分が多い。
最初、斉藤道三に仕え、その死後、足利将軍家、朝倉家に仕えたという。
その後、朝倉家へ流れてきた足利義秋(のちの足利義昭)と接近し、義昭の将軍就任のために働く。織田信長と義昭の橋渡しをする。
信長から認められ、義昭と信長が対立すると、義昭と袂を分かち信長の家臣となる。その後、戦功により近江国滋賀郡を与えられ、坂本城を築城してこれを居城とした。
石山本願寺攻めなどの近畿攻略に加わる一方で、丹波攻略の司令官に任ぜられ、これを平定する。そのまま丹波一国を与えられ近畿地方の軍団長となる。
天正10年(1582年)、徳川家康と穴山梅雪が安土城を訪れた際、饗応役を命じられる。しかし、突然任を解かれ、毛利と対陣中の羽柴秀吉支援のための中国出陣を命じられた。
その途上、京へと取って返し、寡兵にて本能寺に泊まる信長を急襲し、これを討ち果たす。
主君信長を討った光秀は、京を押さえたが、旧交のある細川藤孝や筒井順慶の協力を得られず孤立する。
そこに、毛利と対陣中であるはずの秀吉軍が中国地方から大返しして来た。光秀は山城国山崎でこれを迎撃するが、兵力に劣る上、要衝天王山を秀吉方に取られ大勢は決した。
光秀は、坂本を目指して落ち延びようとする途中、土民の手により討たれた。