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浅井長政

浅井長政 あざい ながまさ

生没年:1545-1573 出身:近江国小谷 浅井久政

幼名:猿夜叉丸。別名等:新九郎。浅井賢政。

官職:備前守。


天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として、六角氏の居城・観音寺城下で生まれる。
父の久政が六角義賢に臣従したため「賢政」と名乗らされ、六角氏の家臣の娘との婚姻を強いられた。この追従姿勢に不満を持つ家臣は久政に隠居を強要、長政が家督を継ぎ、永禄3年(1560年)、野良田の戦いでは見事に六角氏を破った。

その後、織田信長から同盟の申し入れがある。しかし、織田氏は、浅井氏が旧来盟友としてきた朝倉氏と不仲であり、浅井家中では賛否両論あった。結局、長政は朝倉氏との不戦を条件に同盟を決断する。その際、信長の妹・市を妻とした。

永禄11年(1568年)、朝倉義景に見切りをつけた足利義昭を擁して信長は上洛を開始、長政はこれを援護した。
元亀元年(1570年)、信長は、長政に無断で徳川家康と共に朝倉氏を攻めた。浅井氏は朝倉との旧縁を重視し、背後から織田徳川連合軍を急襲した。
同年6月、長政は朝倉氏と共に、姉川の戦いで織田・徳川連合軍と戦う。浅井軍は先鋒・磯野員昌の活躍で織田家を追い詰めたが、徳川軍と戦った朝倉軍が惨敗。そして織田軍の別働隊に突撃され浅井軍も壊滅した。

元亀3年(1572年)7月には織田軍5万が浅井領に来襲する。
信長によって傀儡とされた将軍・足利義昭により信長包囲網が敷かれ、9月にはついに武田信玄が軍を動かした。三方ヶ原の戦いで徳川・織田連合軍を撃破したが、信玄は陣中に没した。。

天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い再び北近江に侵攻する。長政の要請により朝倉義景は援軍に駆けつけたが、戦わずして撤退。信長はこれを追撃し一乗谷の戦いで朝倉氏を滅亡させた。
信長は、そのまま小谷城を包囲、何度も降伏勧告を行うが長政は従わなかった。
長政は、妻・市と3人娘を落とし、9月1日、父・久政と共に自害。享年29。




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