天文2年(1533年)9月24日、朝倉孝景の長男として生まれる。天文17年(1548年)、父の孝景の死去により家督を継ぐ。。
永禄8年(1565年)、将軍・足利義輝が暗殺されると、その弟・足利義昭を一乗谷に迎えた。しかし、義昭が上洛を望んだが、都から呼んだ公家たちと遊興にふける義景はこれに応えなかった。そのため、義昭は義景のもとを去り、織田信長を頼った。
傀儡将軍とされた義昭が信長と対立し、諸国の大名に信長討伐の密書を送った。一方、信長は、将軍の名前をもって義景に上洛を命ずるが、義景はこれを拒絶した。それにより信長は名分を得て、越前を攻めた。このとき、旧来よりの盟友であった浅井氏が、同盟していた織田氏を裏切り背後を突いたために、織田軍は撤退した。
その後も、浅井氏への援軍など、織田氏との戦いが続くが、義景の煮え切らなさから更に戦況は悪化していく。
天正元年(1573年)、信長は3万の軍勢で浅井領の北近江に侵攻する。義景はこれに対し援軍を送るが、朝倉方の砦が落とされるなど戦況は悪く越前に兵を引く。そこを厳しく追撃され、惨敗する。
家中の信頼を失っていた義景は、一族である朝倉景鏡の裏切りに会い、一乗谷城を放棄した末、賢松寺にて自害する。享年41。