乱世の足利将軍
天文5年3月10日、室町幕府第12代将軍・足利義晴の嫡子として生まれる。母は近衛尚通の娘。 幼い頃の京は管領・細川晴元とその家臣・三好長慶による政争化にあり、父・義晴は京を追われていた。
そんな最中の天文15年(1546)、義輝はわずか11歳で近江坂本にて将軍職を譲り受ける。このとき、一時的に京へ戻ることができたが、細川氏と三好氏の争いに巻き込まれ再び京から離れた。
その後、長慶と講和し帰京するが、その直後、再び長慶と戦う。一時優勢に戦いを進めていたが、頼みの六角義賢から手を引かれ、またしても、京を追われる。
戦後、将軍殺しの汚名を嫌った長慶から和睦を申し入れられ京へ戻るが、実権は長慶に握られたままであった。
将軍の意地
義輝は、将軍となった直後には塚原卜伝の剣を学ぶ。また、上泉伊勢守信綱を二条城に招き剣技を披露させるなど、剣の修練に励んでいる。
また、積極的に諸国の抗争の朝廷を行うなどして、幕府権力と将軍権威の回復を目指した政治活動にも力を注いだ。
剣豪将軍の最期
長慶の死などにより三好家の権力に衰退の兆しが見え始めると、義輝は将軍の権威回復のために、さらに積極的な政治活動を行おうとする。
しかし、実権を握ろうとする松永久秀は三好三人衆と語らい、足利義栄の第14代将軍擁立を画策する。
そして、永禄8年(1565年)5月19日、清水観音参拝と称して上洛した久秀と三好三人衆に、二条城を襲撃される。剣に覚えのある義輝は秘蔵の名刀の数々を抜き身で床に突き立て、最期の奮戦をする。だが、衆寡敵せず、最期は三好勢よって討死する。
享年30。