永正16年(1519年)、駿河国守護・今川氏親の五男として生まれる。今川氏は足利氏一門・吉良家の分家にあたり、将軍継承権を持つ名門である。
4歳で仏門に出され梅岳承芳と称した。その時、教育係として太原雪斎が付けられた。
天文5年(1536年)、兄・氏輝が急死したために駿河に戻り、重臣・福島正成らが指示する異母兄との家督争いに勝利し還俗し家督を継いだ。
天文6年(1537年)、兄の時代までの宿敵であった甲斐・武田信虎の娘を正室に向かえ甲駿同盟を結ぶ。しかし、これにより旧来、友好関係にあった相模・北条氏との関係が悪化し、東駿河の領有権を争い戦った。また、西では尾張・織田信秀と三河で戦った。
天文23年(1554年)、甲斐・武田信玄、相模・北条氏康と互いに婚姻関係を結び甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)を締結する。
後顧の憂いを絶った義元は、永禄3年(1560年)5月、尾張へと侵攻を開始する。松平元康らの活躍により緒戦を飾るが、行軍の途上、桶狭間で休息中に織田信長の奇襲を受け、討死。享年42。