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羽柴秀吉

羽柴秀吉 はしば ひでよし

生没年:1537?-1598 出身:尾張国 木下弥右衛門

幼名:日吉丸?別名等:豊臣秀吉。木下藤吉郎。

官職:筑前守。関白太政大臣。太閤。


百姓の子に生まれて?


尾張国愛知郡中村に生まれた。母はなか。
出自には不明な点が多い。

織田家へ


木下藤吉郎と名乗り、今川氏の陪臣・松下之綱に仕える。
天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕える。普請奉行、台所奉行などで成果をあげ信長の評価を得る。永禄4年(1561年)[6]、浅野長勝の養女ねねと結婚した。
美濃の斎藤龍興との戦いの中で墨俣一夜城を築き戦功をあげたとされるが、これは後世の創作の可能性が高い。

朝倉・浅井氏との戦いなどで順調に戦功をあげ、天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、長浜城主となる。この頃、丹羽長秀・柴田勝家から一時ずつ貰い羽柴姓に改めた。
その後、中国地方攻略の主将に命じられ播磨、備前、美作、但馬を織田氏の支配下に収める。

天正10年(1582年)6月2日、備中高松城の水攻めの最中に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれる。事件を知った秀吉は、城将・清水宗治の切腹を条件に毛利輝元と和睦し、ただちに京都へ引き返し山城国山崎で光秀を打ち破った。

信長の死


信長の後継者を決める清洲会議では信長の三男・織田信孝を推す筆頭家老・柴田勝家に対抗して信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師を立てた。三法師は幼少であったが、事前に丹羽長秀、池田恒興らを味方につけていた秀吉が勝利した。
そして、翌年4月、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、勝家は妻・お市とともに自害。そのまま信孝も自害に追い込み、敵対していた滝川一益も従え、信長の後継者としての地位を手にした。

家康との戦い


その後は信長の次男・織田信雄と対立。信雄が徳川家康を後ろ盾にしたため、家康との対決の構図が出来上がる。
小牧・長久手の戦いにおける実戦では家康方の優勢に終わるが、国力に勝る秀吉は信雄を集中的に攻め、信雄は秀吉と和睦する。家康も秀吉と戦う名分を失い講和する。

天下統一


家康を従えた秀吉は、天正11年(1583年)、石山本願寺跡に大坂城を築き天下の拠点とする。
その後、紀伊、四国と平定し、天正13年(1585年)には関白宣下を受け、豊臣姓を賜り、更には太政大臣に任官され、人臣の最高位へと上り詰めた。
その後、島津氏を降伏させ九州を平定する。 天正17年(1589年)には、小田原征伐を行う。その際、奥州の諸大名に小田原参陣を命じ、ほとんどがこれに従った。そして北条氏を滅ぼし、天下統一を成し遂げる。

晩年


天正19年(1591年)には関白を甥である豊臣秀次に譲り、太閤の名を得る。
文禄。慶長の役と二度にわたり朝鮮出兵を行っているが不調に終わった。
また、側室・淀殿との間に秀頼が生まれると、乱行を理由に秀次に切腹を命じ、妻子も皆殺しにしている。

慶長3年8月18日、家康、前田利家らに秀頼を託し、伏見城にて病没する。享年61。




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