明応3年(1494年)、山城国で生まれる。父の松波左近将監基宗は、法皇御所を守る北面武士の末裔だったといわれている。
京都妙覚寺で修行し、11歳で得度を受け僧侶となる。
還俗し、油問屋・奈良屋に入り婿し油売りとして成功を収める。
美濃の豪族・長井氏に仕官した。
当時、美濃は守護土岐家に家督争いがあり不安定であった。道三はその才覚で土岐頼芸に取り立てられる。そして一度は兄との相続争いに敗れた頼芸の守護補任に貢献する。
その後、道三の権力が増大すると、それに反発した土豪・国侍らが道三の追い落としを図ろうとする。しかし、道三はついには頼芸を美濃から追放し、事実上の美濃国主の座に上り詰めた。
ここまでの道三の前半生は、実際は道三の父との二代によるものともいわれる。
追放された頼芸は尾張の織田信秀に後押しを得、旧領回復を計ろうとした。そこで道三は、娘・濃姫を信秀の嫡男・織田信長に嫁がせ織田氏と和睦する。
天文23年(1554年)、子の斎藤義龍に家督を譲り隠居する。しかし道三は弟の龍重や龍定を偏愛し義龍の廃嫡を考えていたという。その背景には義龍が頼芸の胤であったという噂があるが定かではない。しかし、道三と義龍の溝は深刻なものであった。
弘治元年(1555年)、義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵した。数に劣る道三は、婿の信長による援軍も間に合わず、戦死した。享年63。