天文8年(1539年)、長宗我部国親の長男として岡豊城で生まれる。色白でおとなしく軟弱であったため「姫若子」とあだ名されたという。
永禄3年(1560年)5月、宿敵・本山氏との戦いで22歳と遅い初陣をし、勇猛な働きをみせた。
6月、父の急死により家督を継ぐ。
父・国親が考案したとされる半農半兵の「一領具足」を効果的に運用した。
永禄11年(1568年)には宿敵の本山氏を滅ぼし、以後、安芸氏ら周辺の国人領主を席巻する。天正2年(1574年)には、土佐中村の公家大名・一条兼定を追放し、土佐統一を成し遂げる。
元親は、土佐統一を目指し織田信長と同盟を結び、三好氏の勢力が残る阿波、讃岐に侵攻する。その後、信長が臣従を求めてくるが拒絶し、信長と敵対する。天正10年(1582年)には信長の三男・神戸信孝を総大将とした四国征伐軍が編成されるが、本能寺の変による信長の死により、危機を逃れた。元親は、その機に乗じて十河存保を破り、阿波、讃岐を支配下に置いた。
その後は、柴田勝家、ついで織田信雄・徳川家康と羽柴秀吉と敵対する勢力と結びながらも西園寺公広、河野通直らを降して伊予の制圧を果たす。
その直後、中央の覇権を確立していた秀吉による四国征伐が行われ、10万の大軍により四国に攻め込まれた。元親は海防を固める一方、伊予一国を秀吉に割譲することで和睦を求めたが拒絶される。
讃岐、阿波、伊予と三方から同時侵攻され、次々と城を落とされた元親は、降伏する。阿波、讃岐、伊予は没収され土佐一国のみを安堵された。
天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍する。しかし、12月の戸次川の戦いで、四国勢の大将・仙石秀久の失策により敗戦。信親は戦死する。
その後の家督継承問題では、次男・香川親和や三男・津野親忠を差し置いて四男の盛親への継承を強行する。その際、激烈な内部粛清を行うなど暴君ともいえる振る舞いを見せる。
小田原征伐や朝鮮出兵にも参加する。
慶長3年(1598年)の秀吉の死後は家康に誼を通じる。
慶長4年(1599年)5月19日、上洛中の京都伏見屋敷で病没。享年61。