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滝川一益

滝川一益 たきがわ いちます

生没年:1525-1586 出身:近江国甲賀 滝川?

幼名:別名等:弥三郎。「かずます」とも。

官職:伊予守。左近将監。


大永5年(1525年)、近江国甲賀の土豪・滝川資清の次男として生まれたという。織田信長の家臣となる。

永禄10年(1567年)には伊勢攻略の総大将をつとめ、その功により勢長島城を与えられた。
その後、伊勢長島攻めや長篠の戦いなどに参加し、天正10年(1582年)の武田攻めには信長の嫡男・織田信忠の補佐役に命じられる。武田氏攻略の功により上野と信濃の一部を与えられ関東方面司令官となり、関東管領職を与えられた。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こると、これまで恭順の意を示していた北条氏が上野に攻め入ってきた。上野に入って3ヶ月ほどで、まだ統制が取れていないながらも、一益は国人たちに信長の死を打ち明け指示を得た。しかし、よく戦ったが、大敗を喫す。そのため信長の後継者を決める清洲会議に出席できなかった。これにより織田家での地位は没落する。

羽柴秀吉と柴田勝家の争いでは勝家につき挙兵する。しかし、逆に居城・伊勢亀山城を落とされ長島城に逃げ込む。勝家滅亡後も秀吉と戦ったが、降伏する。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いには秀吉の配下として参加し、徳川方の前田種利が籠もる蟹江城を無血開城させるが、家康に攻められ降伏する。このとき、一益の健康状態は最悪であったというが、一益はこれを恥じて剃髪、仏門に入る。

その後、秀吉から越前に3千石の捨扶持を与えられ不遇の晩年を過ごした。
天正14年(1586年)9月9日、越前五分一で死去。享年62。




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