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織田信長

徳川家康 とくがわ いえやす

生没年:1542-1616 出身:三河国岡崎 松平広忠

幼名:竹千代。別名等:松平元康。二郎三郎。元信。 東照大権現。

官職:三河守。内大臣。征夷大将軍。


12年に及ぶ人質生活


天文11年(1542年)12月26日、東三河の土豪・松平広忠の嫡男として、岡崎城で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。
忠政の嫡子・水野信元が今川義元についたため、広忠は於大を離縁し、家康は母と生き別れになる。竹千代2歳のときである。

6歳のとき、広忠は織田信秀に対抗するため今川家に帰属。竹千代は今川家へ人質として送られる途中、継祖父・戸田康光の裏切りにより織田家へ送られる。しかし、父は今川家との同盟を崩さなかった。
2年後、織田信広との人質交換で駿府に移された。竹千代が織田家にいる間に広忠は死去。岡崎は義元の支配下に置かれた。

独立


義元の下で元服した家康は元信となのり、のちに元康と改名。初陣を飾る。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで義元が信長に討たれると、元康は今川家を離れ信長と清洲同盟を結んだ。名も徳川家康と改めている。
その後、三河一向一揆との戦いを経て、東三河の支配を堅固なものとする。

信長との同盟


信長の天下布武の唯一の盟友として越前攻めや姉川の戦いに参加し奮戦している。
今川領攻略に際しては武田信玄と結び遠江を支配下とするが、信玄が上洛の軍を起すと、家康は信長との同盟を順守し三方ヶ原で信玄と対決し、大敗を喫す。しかし信玄の死により滅亡を逃れた。
天正3年(1575年)信玄の跡を継いだ武田勝頼を、織田・徳川連合軍で長篠に撃破する。多くの勇将を失った武田家は衰退し、天正10年(1582年)3月、信長により滅ぼされた。家康は、その際の功により駿河一国を信長から与えられている。

6月、本能寺の変が起こった際、堺にいた家康は決死の伊賀越えの末、帰国する。そして明智光秀討伐の軍を起すが、羽柴秀吉に先んじられ兵を収める。一方で一揆によって空白地となった武田旧領に攻め入り甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を領する大大名へとのし上がった。

秀吉との争い


柴田勝家を破った秀吉が台頭すると、これと対立する。家康は信長の子・信雄と結び、小牧・長久手の戦いに勝利する。しかし、秀吉は正攻法をさけ信雄と和睦、名分を失った家康は兵を収め、秀吉に恭順した。
秀吉の命により関東に移封された家康は江戸に本拠を移す。豊臣政権の一員として小田原攻めにも参加する。
秀吉が病に倒れると五大老のひとりに任じられ、嫡子・秀頼の庇護を求められた。

天下人へ


秀吉没後、家康は伊達政宗や豊臣家の武功派大名と結び天下取りへと本格的に動き出す。それに対して前田利家、石田三成は詰問使を送るなどして家康の増長を抑えようとした。しかし、利家が病没。家康と互角に渡り合えるだけの人物を失った。

慶長8年(1600年)、関が原の戦いで石田三成との争いに終止符を打った家康は、戦後処理において豊臣家を一大名の身上に落とし、実質的な天下人となった。
慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍に任じられる。名実ともに武家の棟梁となった家康は、慶長10年(1605年)、三男・秀忠に将軍を譲り、徳川の天下を示した。
そして、死の前年、大坂の陣で豊臣家をついに滅亡させ、徳川政権の禍根を絶った。

元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れ、
4月17日、駿府城で死去した。享年75。



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