新井忠雄 あらい ただお
生没年:1835-1891 出身:奥州磐代 父山崎覚兵衛一善
別名等:新井陸之助。荒井一業。荒井俊蔵。荒尾俊蔵。成尾退蔵。
役職:新選組諸士調役兼監察。御陵衛士。
生誕〜入隊
天保6年2月7日、奥州磐代平藩士・山崎覚兵衛一善の次男として生まれ、母方の姓を名乗った。
嘉永5(1852)江戸に出て、慶応元(1865)年夏ごろ、京坂での隊士募集に応じて入隊する。
諸士調役兼監察、剣術師範を兼任した。
御陵衛士として
長州にも出張した際は、伊東甲子太郎とともに尊攘派の浪士と交流を持った。
慶応3(1867)年3月、伊東、三木三郎、篠原泰之進、服部武雄らとともに御陵衛士を拝命し新選組を離脱し高台寺党を名乗った。
その後は、数度に渡り九州に遊説に出かけている。
伊東、藤堂平助らが殺害された油小路の変、近藤狙撃事件の際は江戸への同士募集に出かけていた。
赤報隊
鳥羽・伏見の戦いに参加した後、三木、篠原らと赤報隊の義挙に参加した。
新政府から京都への帰還命令が出ると、相楽総三らと離れ京に戻ったが、投獄された。
維新後は司法の場で
釈放後は、新政府軍の軍曹として越後口、庄内などで活躍した。
維新後は京都刑法官監察司知事として京都に赴任したが、明治3(1870)年4月に免職される。
地方官を経て、明治7(1874)年、司法省に再出仕、以降司法畑を歩み、明治19(1886)年に退官した。
明治24年2月15日、東京で没した。
享年57。