井上源三郎 いのうえ げんざぶろう
生没年:1829-1868 出身:武蔵国多摩 父宮川久次郎
別名等:井上源三郎一武。
役職:新選組六番組長。見廻組格。
生誕〜多摩・江戸
文政12年3月1日、多摩郡日野宿で八王子千人同心・井上藤左衛門(松五郎)の三男として生れる。
井上家の祖先は駿河今川家の家臣で、桶狭間の戦い後、甲斐・武田家に使えた。
武田家滅亡後、武田家の遺臣を中心に結成された、半士半農の八王子千人同心として徳川家に使えた。
兄弟は5人で、次男の松次郎が井上家を継ぎ、松五郎を襲名した。
源三郎は弘化4(1846)年頃、父、兄と同じく、八王子周辺に根付いていた天然理心流の近藤周助に入門する。
佐藤彦五郎が屋敷に構えた道場で剣を学んだ。
剣術の稽古に熱心で農作業が疎かであったという。
嘉永元年に目録、万延元(1847)年には免許皆伝となった。
浪士組参加〜新選組
文久3(1863)年、浪士組上洛に参加する。
新撰組結成後は、試衛館一門の最年長者として対外的な交渉などの仕事もこなした。
副長助勤、六番隊組長を勤める。
池田屋事件では、土方隊の別働隊10名を率い活躍、褒賞金十七両を賜る。
慶応3年(1867)年6月には見廻組格として幕臣に取り立てられ、その年の10月に土方歳三とともに江戸に下り隊士募集を行っている。
このときの募集で甥の井上泰助も入隊した。
戦死
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが始まる。
新選組が陣を敷いていた伏見奉行所は炎上し、新選組は淀方面へと退却した。
そして4月5日、淀千代松での激戦の中、銃弾に撃たれ、戦死。
享年40歳。
無口で、温厚な性格で、若い隊士からの人望も厚かったという。
頑固な面もあり、一度言い出すとテコでも動かないところがあったともいう。