近藤周平(谷昌武) こんどう しゅうへい (たに まさたけ)
生没年:1848?-1901 出身:備中国松山 父谷三治郎供行
別名等:谷周平。正武。千三郎。藤原昌武。
役職:見廻組格並。
生誕〜新選組入隊
嘉永元年5月20日()、備中国松山藩士・谷三治郎供行の三男として松山で生まれる。
谷三十郎、谷万太郎の実弟である。
入隊は文久3(1863)年末から、翌年春頃である。
近藤勇の養子に
元治元(1864)年6月の池田屋事変の前頃に近藤勇の養子に迎えられる。
板倉周防守の後落胤という噂を近藤が信じた為だといわれている。
池田屋以降
池田屋にも参加し、近藤が養父周斎に宛てた手紙には最初の斬り込み参加したと書かれているが、疑わしい。兄万太郎とのすり替えの可能性もある。
事件後、15両の褒賞金を得ている。
慶応3(1867)年に新選組が幕府直参となった際には見廻組並の格付を得たが、谷性に戻っていることから、その前後に養子縁組を解消されていたようである。
脱走〜その後
慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦いの後、江戸で脱走する。
維新後は大阪府警に入ったが、ほどなく辞職している。
神戸で没したとされる。享年54。