野村利三郎 のむら りさぶろう
生没年:1844-1869 出身:美濃国大垣
別名等:野村利三郎義時。
新選組入隊
弘化元年、美濃国大垣に生まれる。
慶応3(1867)年6月以降に入隊したと見られ、局長附人数の中に名前が見られる。
甲州戦争〜北へ
慶応4(1868)年1月、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸に戻り甲陽鎮撫隊として甲州に出陣する。
甲州戦争に敗退し、流山で近藤勇が新政府軍に投降する際、利三郎は村上三郎と共に従った。
村上は途中で流山へと帰ったが、利三郎は捕らえられ監禁された。
その間、近藤宛の文を届けに来て捕縛された相馬主計と再会する。
近藤の処刑後、相馬と共に釈放され、以降、行動を共にする。
旧幕府の陸軍隊に加わり、海路、仙台を経て蝦夷地へと向かった。
池田屋以降
池田屋では、愛刀虎徹を手に自ら先頭に立って戦った。
池田屋での活躍により、その名がが世に広まり、新選組は最盛期を迎える。それと同時に勇の立場も重くなり、現場で剣を振るうこともなくなる。主な仕事が政治向きな事となっていく。
慶応3年、新選組は正式に幕府直参となる。
四候会議でに同席した際「親藩たる以上、幕府に非があろうと、これを庇護するべきである。」と松平春嶽を批判した。
同年12月18日、高台寺党残党に狙撃され肩を負傷する。この傷のため翌年の鳥羽・伏見の戦いには参加できなかった。
鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕軍は賊軍の汚名を着せられ江戸へと撤退する。新選組も幕艦にのり江戸へ向かった。
箱館・宮古湾での壮絶な死
箱館に到着後は、陸軍奉行添役に任ぜられる。
宮古湾海戦では、政府軍の軍艦甲鉄奪取作戦を決行する為、土方歳三に従い、回天に乗船した。
悪天候の為、作戦が変更されると、利三郎は自ら志願し奇襲部隊に参加した。
甲賀源吾が艦長を務める回天で敵艦・甲鉄に特攻を仕掛け、壮絶な討ち死にを遂げた。
享年26。