相馬主計 そうま かずえ
生没年:1835-1??? 出身:常陸国 父船橋平八郎
別名等:相馬肇。相馬主殿。
役職:新選組隊長
入隊前
天保6年、常陸国笠間藩士・船橋平八郎の子として生まれる。
笠間藩は剣術が盛んで、特に唯心一刀流、示現流が盛んであった。
相馬の新選組入隊前は謎に包まれているが、相馬もいずれかの剣術を学んだと思われる。
新選組入隊
新選組入隊は慶応3(1867)年10月頃であるといわれる。その頃の名簿には「局中附人数」の中に名を連ねる。
慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦いでは、入隊数ヶ月にも関わらず、隊長附50名の組頭に抜擢されている。
甲州敗戦〜謹慎生活
甲陽鎮撫隊として、甲州勝沼で戦うが敗れ、流山において近藤勇が投降する。
その際、付き従っていた野村利三郎と村上三郎のうち、村上は引き返し、野村は近藤と共に捕えられた。
このとき、土方歳三は近藤の助命を依頼するため、相馬ともう一人の隊士を従え大久保一翁、勝海舟を訪ねた。
翌日、相馬は勝の部下・松濤権之丞から近藤への手紙を携え、板橋宿を訪れた。
しかし、近藤との面会も許されず、先に捕えられた野村と同じ牢に入れられた。
斬首刑が決まっていたが、近藤の処刑後、笠間藩に預けられ謹慎生活を送った。
北へ
その後、野村と共に旧幕府陸軍「陸軍隊」に加わり、海路、仙台へと向かった。
幹部として戦闘に参加し、「殊に器量の者なり」と賞賛された。
仙台(石巻とも)で土方と再会した後、陸軍幹部として新選組と行動を共にした。
宮古湾海戦にも参加し、傷を負った。
この時、野村は敵艦に斬り込み、討ち死にしている。
最後の新選組隊長
箱館戦争では、砲兵隊を率いて弁天台場に籠城し、弾薬が尽き降伏する。
そのとき、相馬は主殿と名を変え、新選組隊長として新選組の最期を迎えている。
五稜郭開場後、相馬は榎本武揚、大鳥圭介、松平太郎、永井尚志らと同格として東京に送られた。
維新後〜謎の最期
明治3(1870)年10月、終身流罪の刑が決まり、新島に流された。
新島では大工棟梁・植村神兵衛に預けられ、島民に読み書きを教えた。
その間、植村の次女マツと結婚した。
明治5(1872)年、赦免され、妻マツを連れて東京蔵前に移り住んだ。
その後、突如割腹自殺を遂げたとも、何者かに殺害されたとも言われている