山崎烝 やまざき すすむ
生没年:18??-1868 出身:大坂?阿波国徳島?
別名等:山崎丞。蒸。進。晋。
役職:新選組諸士取扱兼監察。見廻組格
素性
大坂の針医者の息子として生まれたとも、阿波徳島の生まれともいわれる。
背が高く、色黒で、あまり口を利かない人であったという。
香取流棒術の使い手で、文武両道の人物であったという。
新選組監察方
京阪に詳しい山崎は、新選組で重宝され、元治元年春頃から諸士調役件監察として謀報活動に携わる。
池田屋事件では長州藩士の探索にあたった
薬屋に扮装し、数日前から潜伏。屋内から鍵を開け、近藤らを誘導したといわれているが、褒賞金名簿にその名はなく、虚構である可能性が高い。
慶応元年、長州再征に際して幕府の長州藩訊問のための死者が派遣されると、近藤らと共に同行した。近藤らは帰京したが、山崎は吉村貫一郎と残留し、長州藩の情報収集にあたった。
慶応2年6月、幕軍と長州の戦闘が始まると、戦況を会津藩や近藤に報告した。
松本良順が屯所を訪れた際には救急治療法を習った。
12月には大和国宇陀郡松山上町、翌年3月には近江国八日市宿付近の村々に出かけ、訴訟などを処理し治安維持にあたった。
6月、新選組が幕臣に取り立てられると、副長助勤の職にあった山崎らは見廻組並の格を授かる。
この前後から、中山忠能、正親町三条実愛らの公卿邸を訪問し、公武合体論を説いた。
鳥羽伏見の戦い〜海上での死
慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いて、5日の淀もしくは、6日の橋本の激戦の最中、重傷を負い、敗走する幕軍と共に大阪に引き上げた。
10日、幕艦・富士山丸に乗せられ大坂を出航したが、11日に死亡し、遺体は紀州沖で水葬にされたといわれている。
淀、橋本でそのまま死亡したという説もある。
彼については、いまだに謎が多い。