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江戸帰還


大坂入城

橋本から撤退した新選組は、淀川の下流の八軒家の京屋忠兵衛し、翌7日、大坂城の二の丸に入城した。
土方歳三は、そこで出陣できなかった近藤勇や沖田総司に再会し、敗戦の報告をした。
のであるが、その7日、大坂城内はある大事件に騒然としていたのである。
前日の6日、城内の兵士に向かって「これよりただちに出馬せん、皆々用意せよ」と宣言していた総大将であるべき徳川慶喜が、その夜、重臣と松平容保・定敬兄弟を伴って、密かに大坂城を脱出していたのである。
そして7日には天保山沖に停泊していた旧幕艦・開陽丸に乗り込んで江戸へと向かってしまったのである。

慶喜が居なくなった大坂城内では軍議が行われ、近藤も土方に付き添われ登場し、「この城(大坂城)をおめおめと敵に渡すのは末代の恥辱である。私に300の軍勢をお与えくだされば、この城に籠もって城を枕に討死いたします。」と籠城しての徹底抗戦を主張した。
しかし、慶喜は大坂城を去るに際し、残した重臣に対し開城する様に命じており、兵士達は仕方なく大坂城を捨て、陸路と海路に分かれて江戸に退却することになった。

海路、江戸へ

「鳥羽・伏見の戦い」での新選組の戦死者は22名に及び、混乱に乗じて脱走したものも12名いたため、このときには総勢116名となっていた。
新選組は旧幕艦に乗り、海路、江戸に向かうことになり、1月8日、淀川から木津川を下り船中で一泊し、9日には永倉新八・原田左之助らの本隊が小船で兵庫に向かった後、「順陽丸」で、10日には近藤・土方そして労咳が悪化し寝たきりのようになっていた沖田総司が負傷者とともに「富士山丸」に乗り込み、風を待って11日の朝に出港した。

永倉らの乗った「順陽丸」は12日には品川に入港し、新選組隊士はそこで下船し、品川寺門前の旅宿・釜屋に宿泊した。
近藤らの乗った「富士山丸」は、14日の夕方に横浜に入港し、重傷の隊士に世話役として付けられて島田魁を含めた22名がここで下船した。
彼らは幕府のフランス語伝習所であった横浜病院に入院している。

その後。15日に品川に入港し、釜屋で永倉ら先着の隊士と落ち合った。
近藤、沖田、斎藤一らは軽傷の30名ほどを伴って、旧知の医師・松本良順のいる神田和泉橋の医学所に向かった。

江戸にて

江戸に帰還した翌日の16日、近藤と土方は江戸城に登城した。
そこで、鳥羽・伏見の戦いの状況を尋ねられた土方は、戦闘の中心は銃火器に移っており、もはや刀剣で戦う時代ではなくなった、と報告している。

一方、近藤の右肩はかなりの重傷で、診察した松本良順は直ちに手術をし、骨片を摘出したという。
そして、2月10日に江戸登城の命が下るまで、医学所と横浜病院で治療を受けた。

一方、品川に宿泊していた新選組隊士たちは、23日、幕府より屯所として引き渡された鍛冶屋橋門内の若年寄屋敷に移っている。
28日には、近藤と共に医学所に移っていた軽傷の隊士たちも移転し、江戸の屯所に90人以上の新選組隊士が集結した。
この時期は、隊士たちにとって、束の間の休息の時となった。

登城の命を受けた近藤は、2月12日、江戸城に登り上野寛永寺の大慈院で謹慎する徳川慶喜の警護を命じられた。
1月6日に江戸を経った慶喜は、12日に江戸城へ入っており、城内では主戦派と穏健派が激しく対立したが、慶喜は既に新政府への恭順を決めており、近藤が登城する12日の早朝には謹慎・恭順する意思を表明していた。

そして新選組は、2月15日から25日までの間、慶喜の警護を務めた。


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