甲陽鎮撫隊出陣
甲陽鎮撫隊
新選組が上野寛永寺で謹慎する徳川慶喜の警護をしている間、新政府軍が江戸に向けて進行しているという情報が入ってきた。
これを聞いた近藤勇は、旧幕府軍の陸軍総裁であった勝海舟に、甲府城に籠城し新政府軍の進行を食い止めるという作戦を提案する。
その提案は受諾されるのであるが、幕府は既に、新政府への恭順を決めており、主戦派の新選組が江戸に居ては新政府との交渉に支障があるかもしれないと、新選組を江戸から遠ざける意味もあり、勝海舟が派遣を決めたともいわれている。
甲州への出陣が決まった新選組はには、2月27日に大久保一翁より2394両2朱の軍資金と大砲2門が与えられ、まず、大石鍬次郎が甲府に先発した。
しかし、新選組では江戸引き上げ後に脱走者が相次ぎ、隊士は70人程度にまで減少していた。
そこで、松本良順がはからいで、浅草の矢島団左衛門とその配下100名が加わることになった。
松本良順は更に、矢島から病院建設資金として受け取っていた3000両を軍資金として提供した。
そして会津藩からも1200両を与えられた新選組は、新選組の名では新政府を刺激しすぎると「甲陽鎮撫隊」と名を改め、近藤勇は大久保剛、土方歳三は内藤隼人と名を変えて、3月1日、前日に宿泊した内藤新宿を進発した。
近藤・土方の名乗った大久保、内藤の姓は、古のの功臣の姓を徳川家から賜ったものである。
近藤・土方の凱旋
内藤新宿を出発した甲陽鎮撫隊は、3月1日に近藤の出身地・上石原村(現・調布市)を通過し府中に宿泊し、翌2日、土方の出身地・日野を通過した。
近藤は、長棒引戸の大名が乗るような駕籠に乗り、土方は洋装断髪で馬に乗っての凱旋帰郷であった。
日野では佐藤彦五郎宅に立ち寄った。
近藤は、前年狙撃された際の傷が完治しておらず、右手は胸までしか上がらず、左手で盃を干したという。
また、甲陽鎮撫隊の出陣には、千駄ヶ谷の植木屋・柴田平五郎宅で療養していた沖田総司も同行しており、佐藤家の玄関で相撲の四股を踏むまねをして見せたという。
しかし、この後病状が悪化し、江戸に戻されている。
ここでは、50〜60人が近藤の元に従軍を願い出てきた。
近藤は故郷の者を危険にさらすのは忍びないと、戦地へ赴くことの無謀を説いた。
しかし熱意に負け、佐藤彦五郎が率いる「春日隊」という22人の別働隊を組織し、甲陽鎮撫隊に付属させた。
甲陽鎮撫隊は、相模の与瀬、駒飼と進軍し、3月5日甲州勝沼に到着した。
そこで、彼らに驚くべき情報がもたらされた。