伊東甲子太郎離脱-御陵衛士拝命
慶応2年(1866)12月5日、一橋慶喜が将軍の座に着く。第十五代将軍・徳川慶喜の誕生である。
そのわずか20日後の25日、親幕派であった孝明天皇が崩御する。
36歳の若さでの突然の死に、当時は毒殺説がささやかれた。
中央の情勢に伴い、長州などでも勤皇討幕の動きが勢いを増した。
そんな中、新選組でも、一人の男が行動を起こしていた。
慶応元年の元旦、新選組参謀・伊東甲子太郎は新選組内の同志達および、近藤に批判的な幹部、永倉新八、斎藤一を伴い遊郭に入り浸り、近藤から帰局を促されたという。
伊東による、近藤はの抱き込み作戦、新選組分離作戦が始まっていたのである。
その数週間後、一月中旬から、伊東は新井忠雄と共に九州へ出張する。
表向きは九州の情勢探索という理由であったが、その実は、離脱後の協力を得るための倒幕派志士達との接触である。
伊東らは兵庫より海路で九州に向かい、2月2日に文久3年8月18日の政変で都落ちした7人の公卿のうち5人がいる大宰府に入った。そして、中岡慎太郎ら倒幕派の志士と面談する。
伊東が「水戸脱藩・宇多兵衛」と名乗り九州入りしたことからも、この頃の伊東が勤王派であったことは明白である。
しかし、「新選組・伊東甲子太郎」は九州の勤皇派志士からスパイとして疑われた。
その為、伊東は自分が新選組の方向に異論があり分離を考えていることを説明して嫌疑を晴らそうとした。
しかし、伊東は、その死まで、勤王・佐幕両派からスパイの疑惑を掛けられ続けていたようだ。
九州出張の一方、京都では伊東派の篠原泰之進らが、伊東の命を受けて、崩御された孝明天皇の亡骸が葬られる東山・泉涌寺の陵墓を護衛する「御陵衛士」を拝命するための工作を行っていた。
御陵衛士(ごりょうえじ)とは伊東が東山戒光寺の勤王僧・湛然と図って創り出した新しい職務である。
3月7日、伊東と新井が九州を後にした。その一方、篠原らは3月10日、武家伝奏より正式に御陵衛士拝命の許しを得、伊東の帰京を待った。
3月12日、伊東らが九州から帰京。同志達と面談し九州行の成果を報告した。
そしてその翌日、伊東は近藤勇・土方歳三に対して新選組離脱を申し出た。
根回しの成果もあり、近藤らも渋々承諾した。その後、15日に京都奉行・大久保忠恕、会津藩公用方・野村左兵衛と相次いで面会し承諾を得、16日には近藤・土方と盃を交した。
そして、3月20日、伊東派は正式に新選組から分離し、東大路通三条近くの城安寺に宿をとり、翌日、五条橋東の善立寺に移った。
20日、21日に第1陣が分離、25日頃までに藤堂平助らが分離した。
そのメンバーは・・・
御 陵 衛 士 | 伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納鷲雄、新井忠雄、 毛内有之助、阿部十郎、服部武雄、藤堂平助、斎藤一 |
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随 従 同 志 | 富山弥兵衛、内海次郎、橋本皆助ほか |
分離した隊士の中には、近藤の試衛館以来の同志が二名含まれていた。
斎藤一と藤堂平助である。
伊東は、分離に際して永倉か斎藤のどちらかを同行したいと願い出ていた。
それを受けて、近藤は斎藤の同行を許したのである。
伊東からしてみれば、新選組幹部の一人を引き抜いたつもりであったが、近藤は斎藤に御陵衛士の内偵の密命を与えていた。
これが、伊東の運命を大きく左右することとなるのである。
そして、もうひとりの藤堂は、元々、伊東の寄り弟子であったと言われ、伊東を新選組に引き入れた張本人である。しかし、試衛館時代から近藤に心を寄せていたことは確かであり、いつ頃からか、何らかの理由により近藤から心が離れていたようである。
分離の第一陣から数日遅れていることから、その分離が一筋縄ではいかなかったことが伺われる。
新選組と御陵衛士の間には今後の隊士の移籍を禁ずることが約定された。
4月14日には、倒幕論者であった新選組隊士・田中寅三が脱走した。しかし、この約定があったため、御陵衛士への編入がかなわず、潜伏しているところを翌日、新選組に発見され、切腹になっている。