幕臣取り立て
慶応3年(1867)6月10日、新選組隊士全員が幕臣に取り立てられることになった。
文久3年(1863)年の結成以来の京都での功労に報いるための格式を定めるように、幕府が会津藩に命じたのである。
その結果、新選組は見廻組格─京都見廻組と同格の扱いとなることになった。
局長の近藤は見廻組与頭格とされ御目見得以上(将軍への拝謁が許される)あの身分を許され、副長の土方は、見廻組肝煎格、沖田、永倉ら副長助勤は見廻組格、吉村貫一郎ら諸士調役兼監察は見廻組並、他の平隊士たちは見廻組御雇の格式が与えられた。
格式 | 手当 | 姓名 |
見廻組与頭格 | 300俵 | 近藤勇 |
見廻組肝煎格 | 70俵5人扶持 | 土方歳三 |
見廻組格 | 70俵3人扶持 | 沖田総司・永倉新八・井上源三郎・原田左之助 ・山崎烝・尾形俊太郎 |
見廻組並 | 40俵 | 吉村貫一郎・大石鍬次郎・安富才輔・岸島芳太郎 ・安藤勇次郎・茨木司・村上清・谷周平 |
見廻組御雇 | 10人扶持 | 平隊士90名 |
反対者たち
この幕臣取り立てに異議を唱えるものがあった。
佐野七五三之助・茨木司・冨川十郎・中村五郎を首謀者とした、岡田克見・中井三弥・木幡勝之進・松本俊蔵・10名である。
彼らは、伊東甲子太郎が新選組の内情を探るために残した隊士であった。
彼らは、徳川家の家臣になることは、それまで仕えていた会津藩主との二君に仕えることになり、武士の面目が立たないと主張した。
佐野らは、隊を脱し、12日には善立寺の御陵衛士に合流をはかったが、新選組との移籍を禁止する約定があったため、拒絶された。
6月13日、彼らは新選組脱退の嘆願書を会津藩に提出するため、下売町の京都守護屋敷に行った。
これには会津藩側でも対処に困り、近藤のもとに通報した。
そして、すぐに近藤、土方、山崎、尾形、吉村らが守護屋敷に出向き、佐野らの説得にあたった。
しかし、脱退を認めない近藤らと、あくまで脱退を求める佐野らの会談は、翌日も平行線を辿った。
そこで、佐野ら4人は、自分達は幕臣となるが、他の6名の離脱を認めて欲しいと譲歩案を示した。近藤もこれを飲み、会談は一息つき、佐野ら4名は内密な話をしたいと、別室を借り受けた。
少しの後、様子が気になった島田魁が部屋の中を覗くと、4人は自らの命を絶っていた。
不動堂村屯所 -二度目の屯所移転-
切腹した茨木・佐野・冨川・中村の4人の遺体は四条大宮の光縁寺に運ばれ埋葬され、15日の早朝には葬儀が執り行われた。同調した6人の隊士は放逐処分となり、新選組から離れた。
彼らの葬儀が行われた15日、新選組は西本願寺の屯所から、醒ヶ井七条下ルの不動堂村へと移転することになっていた。
新選組の振る舞いに迷惑していた西本願寺は、土地と全ての費用を負担して新しい屯所を建築したのである。
不動堂村の屯所は、近藤の妾宅と隣接しており、内部は、中央に広間、その両脇に長廊下が通り、右側には平隊士達の部屋が、左側には幹部隊士の固執があり、その奥に局長・副長の部屋があったという。
また、この頃、御陵衛士も、善立寺から、高台寺の塔頭・月真院に移っていた。