新選組の解散!?
元治元(1864)年1月、新選組は再上洛した将軍・家茂の警護の任を果たした。
新選組は近藤体制の下、磐石かに思えた。
しかし、隊内には問題が山積していた。
芹沢暗殺の余波で脱走者が相次ぎ、新選組は組織として伸び悩んでいた。
そして、武田観柳斎が代名詞とされる男色が隊内で流行していた。
さらには、この頃から、副長・山南敬助が表舞台から消えてしまっている。
おそらく、かなりの重傷、または重病であったと思われる。
4月には水戸藩士らが攘夷の先駆けとして挙兵するなど、世相は騒然としていた。
にも関わらず、将軍・家茂は東帰してしまい、新選組の隊務は、あいかわらず京都市中の見回りの日々が続いていた。
そんな状況下から、軽い鬱状態になってしまった近藤は、こともあろうか新選組解散、もしくは帰郷を幕府に願い出た。
しかし、老中から説得され思いとどまった。
そして、新選組がその名を轟かす日を迎えることになる。