壮絶!池田屋騒動
日本のあちこちで攘夷の気運が高まり、京都に潜伏していた過激派の浪士たちも、いつ暴発してもおかしくない状況にあった。
幕府は浪士たちの行動に警戒を強め、新選組も浪士の行動察知のため市中探索に全力をあげた。
元治元年6月1日、新選組は一人の不審な男を捕らえ、拷問にかけた。
すると、長州浪士が京都とその周辺に多数潜伏している。
大風の日を待ち京都市中に火を放ち、公武合体派の中心人物である中川宮親王と松平容保を討ち取るという策謀を吐露した。
また、同日早朝、かねてより目をつけていた商人・桝屋喜右衛門こと古高俊太郎を武田観柳斎率いる一隊が捕縛した。
なかなか口を割らず、土方により、足の甲に釘を打ち抜き、火の点いたろうそくを立てるという、厳しい拷問が行なわれた。
古高は朦朧とするなか、うわ言のよう計画の全貌を白状した。
同時に捜索された桝屋からは、武器弾薬、同士との連絡に使われた書面などが発見された。
古高捕縛の報を受けた
過激派浪士の代表メンバーの宮部鼎蔵、吉田稔麿らは長州藩邸に集まり対策を練った。
古高奪還案も出されたが却下され、更に対策を建てるために、夜に三条小橋の宿屋・池田屋に集合することとなった。
新選組は山崎烝ら監察方の情報収集の末、今夜浪士たちが会合を行なうことを察知した。
6月5日、祇園祭の宵宮の日である。
新選組隊士たちは、午後8時の出動に備えて祇園会所に集まった。
隊内は病気のものが多く、実際出動できたのは34名のみであった。
念のため、会津藩兵にも出動を要請した。
しかし、一向に会津藩兵が出動の知らせが来ない。
長州藩と直接刃を交えることを嫌ったためともいわれている。
痺れを切らした近藤らは34名の隊士を近藤以下、沖田、永倉、藤堂ら10名と土方以下、井上、原田ら24名の2つに分けた。
近藤隊は鴨川の西岸を、土方隊はさらに土方隊13名と井上隊10名に分けられ、鴨川の東岸を探索した。
(浪士の会合場所が池田屋か三条大橋向こう綱手の四国屋かに絞られていたというが、それならば、土方隊が2隊に分けられる必要はなく、この時点では浪士たちの会合場所は断定できてなかったようだ。)
3時間近くにわたる探索の結果、近藤の隊がようやく池田屋にたどり着いた。
近藤は逃げ出してくる浪士たちに備え出入り口を6名で固めた。
そして、自らは沖田、永倉、藤堂を率い突入した。
「御用改めである!」と声を上げ、2階へと駆け上がった。その後に沖田が続く。
宿の主・池田屋惣兵衛の叫び声で出てきた浪士が一刀のもと近藤の愛刀・虎徹の餌食となった。
騒然となり抜刀した20人の浪士たちに向かい近藤は「御用改めである!手向いすれば容赦なく切り捨てる!」と怒鳴りつけた。
後世に残る壮絶な斬り合いの幕が開けた。
沖田は1人を切り倒したが、持病の労咳が発症し喀血したため祇園会所へと戻った。
近藤は1階へ降り永倉、藤堂と共に奮戦した。
その気合の声は遠くまで響いたという。
藤堂は室内のあまりの暑さに鉢金をはずしたところを、押入れに隠れていた敵に切りかかられ、眉間に重傷を負った。
目に血が満足に戦えないところを永倉に助けられた。
藤堂も途中祇園会所へ退いている。
永倉も手の指の付け根を削がれる怪我を負った。
その頃、土方隊が到着し、外に居た武田観柳斎らが建物内へと助太刀にきた。
遅れた分を取り戻そうと、原田、島田魁らも奮戦する。
やがて会津・桑名の藩兵も到着し池田屋を取り囲んだ。
一時間余りに及ぶ激闘の末、池田屋は戸が破られ、天井までも抜け落ち、血肉が散乱する地獄絵図となった。
過激派の志士は死者6名、重傷で後に死亡した者5名、捕縛者23名。新選組側は死者1名、重傷後死亡した者2名という新選組の圧倒的な勝利に終わった。
新選組隊士たちは祇園会所に戻り休息し翌朝、隊服を整え隊列を組んで壬生の屯所へと凱旋した。
のちに池田屋事件、池田屋事変、池田屋騒動などと呼ばれるこの戦いにより、新選組はその名を世に轟かせることとなった。
池田屋事変における死者
浪士側 | ||
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宮部鼎蔵 | 熊本藩 | 池田屋の内部で斬られた?奮戦後切腹? |
大高又二郎 | 播州林田藩 | 池田屋の内部で斬られた。 |
石川潤次郎 | 土佐藩 | 池田屋の内部で斬られた。 |
広岡浪秀 | 長州藩 | 池田屋の内部で斬られた。 |
福岡祐次郎 | 伊予松山藩 | 池田屋の内部で斬られた。 |
吉田稔麿 | 長州藩 | 池田屋から脱出し、長州藩邸に変事を告げ槍を手に引き返したが、途中の加賀藩邸付近で、周囲を固めていた諸藩の兵に討たれる。 |
望月亀弥太 | 土佐藩 | 池田屋から脱出し、長州藩邸に向かったが、門が閉じており、二条・角倉屋敷あたりまで逃亡したが重傷を負っていたため、門前で自刃。 |
松田重助 | 熊本藩 | 重傷を負って捕縛され、6月8日獄中で死亡。 |
北添佶麿 | 土佐藩 | 自宅で新選組の御用改めを受け逃走したが、逃げ切れず討死。 |
杉山松助 | 長州藩 | 長州藩邸で事変の報を聞き、同士の救出に池田屋へ向かうが、途中で諸藩の兵と乱闘し右腕を切断される重傷を負う。藩邸で翌日死亡。 |
吉岡庄助 | 長州藩 | 酒を飲んでいたところ捕吏に囲まれ斬殺。(巻き添え) |
野老山五吉郎 | 土佐藩 | 重症を負い長州藩邸に逃げ込んだが27日に死亡。(巻き添え) |
吉岡庄助 | 長州藩 | 四条河原で突然取り調べを受け斬り合いになり、その場から脱したが途中で自刃。(巻き添え) |
新選組 | ||
奥沢栄助 | 即死。 | |
安藤早太郎 | 重傷を負い、7月25日死亡。 | |
新田革左衛門 | 重傷を負い、7月25日死亡。 |
池田屋内部の戦闘については永倉の「浪士文久報国記事」に記され明らかになるが、切り捨てた人数と死者の数など他の資料と矛盾している点がある。