新選組結成
15日後、浪士組は京都に到着し,壬生村に入り、民家や寺に文宿した。
試衛館一門は芹沢一派と同じ郷士・八木源之丞邸に宿をとった。
その日の夜、浪士たちは、本部の真徳寺に集められた。
そこで清川は浪士組の真の目的を語った。それは、将軍警護というのは表向きで、真の目的は朝廷のために働くというものだった。清川ははじめから幕府を裏切り、浪士組を手土産に朝廷側につき腹だったのだ
翌日から清川は朝廷工作を行い、浪士組を江戸に引き返えさせることを朝廷に願い出た。横浜で攘夷運動を起こそうというのだ。
数日後、朝廷から、浪士組は攘夷の備えのため、江戸に帰るようにとの命令が下った。
近藤ら試衛館一門は、これに異を唱えた。
そして同宿の芹沢らとともに京都に残留を決めた。
芹沢鴨、新見錦、平山五郎、野口健司、平間重助、近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、藤堂平助、永倉新八、原田左之助。
残留組に京都で加わった斎藤一ほか3名を加えた17名は、佐々木只三郎の仲介で、京都守護職へ嘆願書を提出し、幕府より残留組取りまとめの内命を受けた殿内義雄らを含めた24名は、京都守護職・松平容保お預かりとなった。
殿内らは自ら残留を願い出た近藤、芹沢らとは志が異なっていたのであろうか。
殿内は早々に暗殺され、他の殿内の一派もそれに危険を感じ離脱している。
京都の特別警備の任務を与えられた彼らは、壬生の八木邸をそのまま屯所とし「壬生浪士組」と名乗った。
隊士募集を重ね、正式に組織編制を行い、局長に芹沢、近藤、芹沢派の新見錦(新見は後に副長へ降格)、副長には山南と土方、他の結成時のメンバーも副長助勤として幹部職に就いた。
続いて、大坂の商人から100両を借用し浅葱色の地にだんだら模様の染め抜かれた隊服の羽織がつくられた。
赤地に「誠」の染め抜かれた隊旗が作られたのもこの頃である。
それからしばらくした、8月18日、京で大騒動が起こる。
過激さを増していく長州藩を中心とする尊攘派が、公武合体派により追放されたのである。
8月18日の政変と呼ばれるこの事件に壬生浪士組にも出動命令が下る。
壬生浪士組は御所警護の大任を果たした。
この際、筆頭局長芹沢を先頭にした浪士組52名が蛤御門を通過しようとしたところ、会津藩兵に推し留められた。
壬生浪士の知名度もかなり低かった為だが、朝廷としても浪士が禁裏守衛に加わっているのは聞こえが悪いと思った。
こうして武家伝送より「新選組」の隊名を与えられた。