| HOME | 掲示板 | 御記帳処 | リンク | サイトマップ | 管理人 

近藤勇の最期


板橋へ

慶応4年(1868)4月3日、有馬藤太が指揮を取る新政府軍に出頭した近藤勇は、午後10時過ぎ、従者の野村利三郎・村上三郎と共に流山をあとにし越谷へと連行された。
従者として従った2人の内、村上三郎は、この間に流山へと引き返し土方歳三に近藤の行き先、処遇を報告している。
翌4日の朝4時半頃、越谷宿に到着した近藤勇は、あくまで一隊長としての処遇を受け4時間ほどの仮眠と朝食、仮眠が許されている。
しかし、出頭時すでに新政府軍では、近藤の顔を見知っていた彦根藩士・渡辺九郎左衛門の証言により、大久保大和が近藤勇であるという見方を強めており、仇敵として極刑に処するという方向に向かっていたと見られている。

そして正午前、土佐藩士・上田楠次が率いる護送隊によって、駕籠に乗せられ板橋の総督府へ向けて出発した。

近藤を護送する一行は街道を避け、浦和宿、田島村を経て笹目の渡しを越えて板橋宿に入った。
そして本陣となっていた中宿の飯田新左衛門方へ連行されたのち「応接館」と呼ばれる場所に収容された。

加納鷲雄の証言

近藤の収容後、護送隊の隊長・上田楠次は、薩摩藩士・平田九十郎と会い、近藤勇らしき人物を連行してきたことを話した。
すると、平田は、薩摩藩に、その人物が近藤勇かどうか面通しできる者たちがいるというのである。
その者たちとは、元新選組隊士で御陵衛士として伊東甲子太郎と共に新選組から分離していた加納鷲雄と、武川直衛と改名していた清原清であった。
加納と清原は、御陵衛士壊滅後薩摩軍の一員となり、この板橋に従軍していたのである。

加納と清原は早速、近藤の収容される応接館に赴いた。
そして、まず障子の穴からのぞいて近藤勇であることを確認、その後、近藤の刀を取り上げさせて面と向かった。
加納が「大久保大和、改めて近藤勇」と声を掛けると、さすがの近藤も動揺の色を見せたという。

退路を経たれた近藤は、正体を認め、従っていた野村利三郎と共に、新政府軍に逮捕された。

土方の近藤救出作戦

一方、土方は残った新選組本隊を会津へと向かわせた。
そして、土方自身は2名の共を連れ近藤の助命工作を嘆願する為に江戸に向かった。
4日、江戸に潜入した土方は大久保一翁、勝海舟を訪ねたのち秋月右京亮宅に入った。
翌5日になって、勝の意向を受けた松濤権之丞の近藤宛の書簡が秋月邸の土方に届けられた。
助命工作自体が聞き入れられることはなかったが、この書状は、新選組があくまで鎮撫のために流山に布陣していたことを言い張るための辻褄合わせの書簡であったと考えられている。
土方はこの書簡を、従っていた相馬主計に託し、板橋の近藤の元に走らせた。
しかし、その時既に近藤の正体は露見しており、板橋に着いた相馬も新政府軍に捕らえられてしまった。


近藤勇、最期の時

13日に板橋の平尾宿にある脇本陣・豊田市右衛門方に移された近藤ら3人は、そこで幽閉の日々を送る。
その間、新政府軍の板橋総督府では近藤の処遇が論じられていた。
あくまで処刑を主張するのは、坂本竜馬と中岡慎太郎の暗殺の犯人は新選組であると信じる土佐藩。
薩摩藩は京都に送り、正式な裁判を受けさせるべきであると主張し、土佐藩と対立していた。

しかし土佐藩は、同じく新選組に憎悪を抱く香川敬三とともに図り、江戸の大都督の許しを得て近藤の処刑を決してしまったのである。

そして、24日、近藤は滝野川村三軒家にある旧家・石山亀吉方へと移された。

その頃、近藤の甥・宮川勇五郎は、近藤の妻・ツネ、娘・タマとともに、中野・成願寺に身を寄せていた。
音五郎は、近藤捕縛の報らせを聞いて以来、何度も板橋に足を運び様子を覗っていた。
そして25日、sついに処刑が行われるとの噂を耳にした音五郎は板橋に刑場に向かった。
そこには新政府軍の諸藩士と多くの見物人が詰め掛けていた。

そこに駕籠がやってくる。
斬首が決まった近藤勇を乗せた駕籠である。
勇五郎は、その中に亀綾の袷を着た近藤を見たという。

勇は刑場へと連れられた。
そこに待つ太刀取りは横倉喜三次。
横川は脇本陣に移されて後の近藤を預かっていた岡田家の武術指南役で、近藤らの夜間の監視を命じられていた。
横倉は、監視が緩められるにつれ近藤の方の傷を労り、近藤と理解を深めるようになっていた。
そして死を悟った近藤は、横倉に自らの脇差を与えている。
この脇差は仁王清綱の作と伝えられ「脇差、長きほどよろしく」という近藤の持論に従った刃渡り1尺8寸の刀であった。
横倉はこの仁王清綱を手に、近藤を待っていた。

刑場には茣蓙がしかれ、その前には首を落とすための穴が掘られていた。
腰縄を付けられた近藤は茣蓙の上に座らされ、後ろには小役人が縄を握って座った。

横倉が検視役の許しを得て近藤に申し残すことはないか尋ねると、近藤は「君の太刀取りにては何も申し置くこと是なし。宜しく頼む」とだけ答えたという。

横倉の手により仁王清綱が振り下ろされ、近藤の首は落ちた。

近藤勇の最期。享年35。


近藤の首級

切り落とされた近藤の首は、拾い上げられ、真新しい桶で洗い清められた。
そして、首桶に入れられ、近藤が着ていた羽織が被せられ、近藤の乗ってきた駕籠で本陣 へと送られた。

その後、近藤の首は近藤の罪状を連ねた高札の掲げられた一里塚にさらされた。

 近藤勇

其方儀、京都新選組之頭を勤め
また東下し大久保大和と変名し
甲州勝沼、下総流山において官軍に抵抗し
上は朝敵、下は徳川の内命などと偽り
容易企てに及び候段
其罪数ふるにいとまあらず
よって処刑に行なうもの也

  慶応四年四月廿五日


板橋で晒された近藤の首級は、塩漬けにされ京都に運ばれた。
そして、三条河原にて晒された。

しかし、近藤の首級はその後、その場から消えてしまった。
同情した誰かがどこかの寺に埋葬したのではないかと言われているが、
現在に至るまで、その行方は定かではない。

また、近藤の胴体は、板橋の刑場に埋められていたが、28日夜、宮川音五郎が宮川勇五郎は試衛館世話役・寺尾安次郎、宮川信吉の従兄弟宮川弥七とともに勇の胴体を掘り起こし、近藤家の菩提寺である龍源寺に改葬したと言われている。





関連書籍

新選組隊士伝蒼き群狼、その生と死の断章
新選組隊士伝
蒼き群狼、その生と死の断章
血誠新撰組峻烈壬生浪士の忠と斬
血誠新撰組
峻烈壬生浪士の忠と斬
燃えよ剣(上巻)改版
司馬遼太郎
燃えよ剣
維新の嵐幕末志士伝志士FILE
維新の嵐 幕末志士伝
志士FILE
新選組468隊士大名鑑幕末を駆け抜けた壬生狼たちの群像
新選組468隊士大名鑑
幕末を駆け抜けた
壬生狼たちの群像

前へ 次へ
新選組概史TOP

 新選組隊士名鑑  戦国武将名鑑  歴史館  参考文献  リンク  BBS  ご連絡
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送