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転陣 流山へ


五兵衛新田

永倉新八・原田左之助らが離脱した新選組は総勢65人ほどまで隊士が減少していた。
更に、負傷隊士と介護役の隊士20名ほどを会津へと先発させた為、本隊は40名ほどになってしまっていたと思われる。

そこで、新選組は松本良順に紹介された、江戸郊外の五兵衛新田の名主見習い・金子健十郎家をつてに再起を図ることにした。

慶応4年(1868)3月13日、まず48人の隊士が五兵衛新田に入った。道すがら隊士募集をしてきたのであろう、翌14日には大久保剛から「大久保大和」と改名した近藤勇が10人を連れ、15日には48人の入隊希望者が、そして土方歳三が4人を連れて五兵衛新田に集結している。
その後も、入隊希望者はあとを絶たず、結果227人もの勢力へと膨れ上がったのである。

人員の増強に成功した新選組は松本良順を通じて旧幕府軍関東郡代に移動許可を願い出る。
しかし、陸軍奉行並・松平太郎の意向により、そのまま五兵衛新田に留まる事になった。

しかし、4月1日夜、新選組は突如、転陣することになる。

流山転陣

甲州勝沼で甲陽鎮撫隊を打ち破った新政府軍東山道分隊が、五兵衛新田と荒川を隔てた千住に宿陣したのである。
東山道軍は、勝沼の後、甲州街道を登り内藤新宿、そして、15日に予定されていた江戸総攻撃に備え中山道の板橋宿に本陣を構えていた。
しかし、勝海舟と西郷隆盛の会談により、江戸城総攻撃は回避された。
そこに宇都宮藩よりの援軍要請が入り、日光街道を宇都宮に向かう途中、千住に入ったのであった。

東山道軍、千住入りを知った新選組は金子家に金弐千疋(5両)と自分の肖像画を贈り、五兵衛新田を去った。
その後のルートは明確にはなっていないが、その日松戸に宿を取り、新選組は翌4月2日、下総国流山へと転陣した。

近藤勇、投降

4月2日の正午には流山転陣を完了させた新選組は、味噌屋の「長岡屋」に本陣を構えた。
(これには、醤油屋「紙屋」だったという異説もある。)
そして、光明院、穀物問屋「鴻池」などに隊士たちを分宿させ態勢を整えつつあった。

しかし、4月3日の午後、近藤・土方を驚愕させる出来事が起こった。
いつの間に新政府軍に本陣が包囲されてしまっていたのである。
千住に宿陣していた新政府軍は宇都宮へ向け、粕壁(春日部)まで進軍していたのだが、流山に「武装集団現る」の情報を得て、その分隊が密かに引き返していたのである。
このとき、新政府軍副参謀の薩摩藩士・有馬藤太が、従者一人を連れて流山に入り偵察活動を行ったという。

新選組本陣が包囲されていることに気付いたとき、隊士たちは数キロ離れた所に訓練に出掛けており、長岡屋には近藤、土方以下数名しか残っていなかった。

このとき新選組は、甲州出陣時同様「鎮撫隊」と名乗っており、近藤は「大久保大和」、土方は「内藤隼人」と名乗り新選組であることを隠していた。
土方は、そこに活路を求め、有馬との面会した。
武装解除を命じられた土方は本陣内に戻った。
その時近藤は、もはや是非もなし、潔く最期を迎えよう既に切腹の意思を固めていた。
しかし、土方は、これに強硬に反対した。
そして、「ここに割腹するは犬死になり、運を天に任せ、板橋総督へ出頭し、あくまで鎮撫隊を主張し、説破するこそ得策ならん」と、近藤を説得した。
あくまで流山鎮撫に出陣した鎮撫隊の大久保大和であると言い張り、撤退を約束し、新政府軍が釈放してくれる可能性にかけろというのだ。

土方の言葉に心を動かされた近藤は、自刃を撤回した。
そして、まず午後4時頃武器弾薬の引渡しに応じ、支度を整え、午後十時頃、野村利三郎と村上三郎を共につけ、新政府軍に出頭した。


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