狙われた新選組
沖田総司襲撃未遂
慶応3年(1867)12月14日、新選組は大坂に下り天満天神に宿営した。
しかし、討幕派との武力衝突の気配が高まり、もし戦争となれば伏見が主戦場となることが予想された。
そのため、2日後の16日新選組は伏見に転陣を命じられた。
150名の隊士は大坂を出立し、廃止となった伏見奉行所を本陣とした。
同じ伏見の薩摩藩邸では、油小路の変の際、脱出した御陵衛士と、その同志たちが潜伏していた。
12月17日夜、京都から伏見薩摩藩邸に戻ってきた加納鷲雄は、醒ヶ井の近藤勇の休息所に、沖田総司が潜伏している情報を入手していた。
このころ沖田は、かねてから患っていた労咳(肺結核)が悪化し療養中であった。
それを聞いた阿部十郎は、18日の朝4時半頃に起き出し、内海次郎・佐原太郎と共に沖田の潜伏している休息所へと向かった。
そして、襲撃しようと踏み込んだところ、そこに残っていたのは女一人であった。
その女は、近藤の愛妾のお孝であったのか、下女であったのかは明らかではないが、その女が言うには、沖田は前日の夜10時ごろ伏見に向かって発ったという。
こうして、御陵衛士残党による沖田総司襲撃は未遂に終わった。
近藤勇狙撃事件
阿部、内海、佐原の三人は、京都二本松の薩摩藩邸に顔を出した後、鴨川東岸に住む知人・清水磯吉の元を訪れた。
そこで昼食を振舞われ、50両の援助を受けた。
50両を手にした三人は寺町通りに出掛け鉢金と小手の求めた。
その品定めの最中である。数人の護衛と共に進む馬上の近藤勇を目にしたのである。
近藤は金戒光明寺で会津藩の人間と面談し、伏見奉行所に帰る途中であったといわれている。
阿部ら近藤の帰路であると思われる寺町通りを避け伏見の薩摩藩邸に急いだ。
そして、篠原泰之進、加納鷲雄、富山弥兵衛と合流し、鉄砲2丁を手に、近藤らが通ると思われる伏見街道に急行した。
近藤一行はまだ通過していなかった。
阿部・富山・佐原は鉄砲を手に空き家に潜み、篠原、加納は護衛の兵達の襲撃に備え槍を持って付近に隠れたという。
そこに近藤一行が近づいてきた。
ところが、あせったのか富山弥兵衛が近藤が射程に入る前に発砲してしまった。
しかし、これがまぐれ当たりし、近藤の右肩を貫いた。
そして阿部と佐原が突撃したが、何とか落馬を免れた近藤は、護衛の隊士が尻を叩いて走り出した馬に捕まり窮地を脱した。
この時、篠原と加納は発砲のあと槍を捨てて逃げ出してしまったという。
これらの状況は、阿部十郎の証言によるところが大きい為、事実ははっきりしない。
一方、危機を脱した近藤は、馬を走らせて伏見奉行所に駆け込んだ。
そのうい、護衛として同行していた島田魁と横倉甚五郎も到着。変わって永倉新八が一番組と二番組を率いて現場に急行した。
そこには、討ち取られた新入隊士・井上新左衛門と馬丁の遺体が転がっていた。
近藤は、この時の傷が意外と重傷で、会津藩から20両の見舞金を受けて療養を余儀なくされた。
その間の新選組は土方歳三が局長代理として指揮を執り行った。