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王政復古と新選組


王政復古の大号令

公武合体派を押さえ込み、新政府から徳川家を一気に排泄するクーデター。
これを「王政復古の大号令」という。

慶応3年(1867)10月14日に大政奉還がなり幕府は消失。
諸侯会議開催の為、諸侯に上洛を求めたが多くの諸侯は上洛を拒んだ。

あくまで徳川家の完全排斥を目論む薩長をはじめとする武力派は軍備を整えていた。
11月の内に薩摩・芸州藩兵が入洛、11月29日には長州藩兵800人が西宮に進んだ。
そして12月1日には討幕派の公卿も王政復古の実現を決意する。
12月8日には公卿と諸藩主・重臣たちが参内し、長州藩の処遇に関する朝廷会議が開かれた。
徳川慶喜と旧幕府老中、松平容保・定敬兄弟は病気と称し欠席した。
その会議で長州藩主毛利敬親・定広父子の官位復旧を認め、長州藩兵の入洛を許した。同時に岩倉具視らと「七卿落ち」で失脚した公卿たちも赦され、9日の早朝、会議は散会した。

その直後、薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩兵が宮中に通じる門を固め、「王政復古の大号令」が発せられた。

そうして幕府による諸役が廃絶され、総裁・議定・参与という新政府3職が任命された。
徳川家は、それに加わることを許されず、幕臣や会津・桑名の藩士たちは激怒したが、武力衝突を避けたい徳川慶喜は12日に二条城を出て、大坂に下った。

京都との別れ

会津・桑名両藩も慶喜の下坂に従い、新選組も14日には下坂した。

この時、見廻組は新遊撃隊と改称され、新選組も新遊撃隊御雇と名称変更するよう命じられたが、隊士たちの猛反発により、そのまま新選組と名乗り続けた。


永倉新八は、島原亀屋の芸妓であった小常との間に、7月、お磯という女児が誕生していた。
小常は産後の肥立ちが悪く12月11日に死去、永倉はひどく落胆したが、新選組下坂に伴い多忙で、使いのものをやり、小常を新勝寺に埋葬させた。
その後、お磯を抱いた乳母が永倉に面会に来、親子の対面を果たす。
永倉は乳母に50両を私、江戸松前藩邸の長倉嘉一郎に娘を送り届けて欲しいと頼んだ。

原田左之助は、京都の町人の娘・まさと2年前に結婚、鎌屋町に所帯を持っていた。
翌年には男児が誕生し、茂と名づけた。
そして新選組が京を離れるとき、まさは身重であった。
原田は200両を持って帰宅し、茂だけは立派な武士にしてやってくれと言い残し、隊に戻っていった。
お腹の子は17日に生まれたが一週間後、この世を去った。


それぞれの思いを胸に、新選組は京を去った



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