第二次長州征伐と薩長同盟
慶応2(1866)年2月7日、長州への処分を下すため幕府の全権大使として派遣された老中・小笠原長行の一行は、広島に到着した。
小笠原は、2月22日と3月26日の二回に渡り、長州藩とその支藩へ広島に出頭するように命じた。
だが、またもや彼らは、病気と称して命令に従わなかった。
5月1日、小笠原は長州藩の名代を招聘し処分内容を伝え、29日を期限として請書の提出を命じた。
これに従わない場合は、開戦である。
しかし、長州藩は応じることはなかった。
薩長同盟
長州藩の強気の対応には裏があった。
幕吏の広島到着を前に、長州藩をめぐり、日本を揺るがす大きな出来事が起こっていた。
慶応2(1866)年1月22日、薩長同盟の締結である。
前年より、土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎らの画策で、薩摩藩・西郷隆盛、長州藩・桂小五郎らにより、犬猿の仲であった薩摩と長州の軍事同盟の密約が成立していたのである。
四境戦争
6月7日、幕府軍艦3隻が周防国大島を攻撃、大島口の戦いが始まり、第二次征長戦の火蓋が切られた。
幕府軍は13日に芸州口、16日に石州口、17日に小倉口からも相次いで進軍した。
─ 四方の国境から攻め込んだことから、長州側では「四境戦争」と呼ばれている。
しかし、薩長同盟で行き上がる高杉晋作らの活躍と、幕府側が薩摩藩の協力を得られなかったことで、幕軍は敗北を重ねた。
7月20日、将軍・徳川家茂が大坂城で急死する。享年21の若さだ。
一カ月後、家茂の喪が発せられ、結局、新選組に出陣命令が下ることなく休戦。幕府軍は勝利を得られぬまま撤退した。
これは、幕府の威信の完全な失墜を意味していた。
そして、時勢は討幕へと傾いていった。