近藤勇の長州出張
慶応元(1865)年閏5月、第一次長州征伐の戦後処理を自ら行うため、将軍・家茂は再度西上した。
22日に入京し参内したあと、24日に下坂し大坂城に入城した。
そして6月、長州藩・毛利家のの一族である徳山藩主・毛利元蕃と岩国の吉川経幹に上坂命令を下した。しかし、共に病気と称し上坂を断ってきた。
次いで7月には、長府藩主・毛利元周と清末藩主・毛利元純にも上坂を命じたが、こちらも病気と称して上坂を拒んだ。
先の高杉晋作らのクーデターで倒幕論へと統一された長州藩は対幕府の姿勢をあらわしはじめたのである。
9月21日、再度上洛した家茂は、長州再征を上奏し勅許を得た。
そして、大目付(大名の監視役)・永井尚志らを訊問使として広島へと派遣することを決めた。
これを受け、近藤勇らは会津藩を通じ、新選組の広島への同行を願い出た。
そして新選組にも、訊問使への随行が命じられ、11月4日、近藤が大坂へと下る。
この時、近藤は広島から長州本国に乗り込む決意を固めていた。
佐藤彦五郎・小島鹿之助に宛てた手紙には「万一の時、新選組は(土方)歳三へ任せ、天然理心流は沖田へ譲りたい」と遺書とも思える言葉が記されていた。
長州訊問使の動向 | |
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11月7日 | 訊問使一行、大坂を出発。 近藤勇、 近藤内蔵之助を名乗って、永井尚志の給人役として動行。 他に永井の近習として武田観柳斎、中小姓として伊東甲子太郎、徒歩として尾形俊太郎が随行。 探索要因として諸士調役兼監察の山崎烝・吉村貫一郎・芦屋昇・新井忠雄・服部武雄が従う。 |
11月16日 | 夕刻、訊問使一行が広島に到着。 |
11月20日 | 長州藩の使者・宍戸備後助を国泰寺に招聘し8カ条の訊問を行うが、 宍戸に巧妙にかわされる。 |
〜 | 長州諸隊の代表を招聘。 |
11月30日 | 長州藩諸隊の代表と国泰寺で面談。 |
12月14日 | 近藤ら、岩国新湊へ赴き、藩役人に長州入国の便宜をはかるように申し入れるが、断られる。 |
12月16日 | 永井尚志、海路江戸へ戻る。 |
12月17日 | 近藤ら、帰郷の途につく。 山崎烝・吉村貫一郎は広島に残り、探索を続ける。 |
11月16日、長州藩の使者・宍戸備後助と面談した際、永井は、同席していた近藤ら4名を紹介し、彼らの入国を要求したが、予想通り拒絶された。
永井は、出立前、近藤を町人体に仕立て、長州国内へ潜入させる策を用意していたが、実行はされなかった。
長州再出張と伊東の分裂行動
訊問使の報告を受けた幕府は、長州藩の恭順の姿勢を認め、処分の軽減を考慮した。
慶応2(1866)年1月22日、長州藩36万石のうち10万石の召し上げを決定し、
老中・小笠原長行を全権大使とし、永井尚志らを随行させ広島に派遣することを決めた。
新選組にも警護が命じられ、1月27日、伊東甲子太郎・篠原泰之進・尾形俊太郎を伴い京都を立った。
この時、伊東は既に新選組からの分離を目論んでいた。
同行者に篠原が加えられたのも伊東の意向を受けてのことである。
そして、2月3日に広島入りすると、伊東と篠原は、近藤らと別行動をとったのである。
近藤勇の行動 | |
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2月3日 | 広島に到着。 |
〜 | 尾形とともに、広島に残留していた山崎・吉村から報告を受ける。 |
2月7日 | 小笠原長行、広島に到着。 |
〜 | 長州藩が幕府の処分に応じる気配がないと、京都に報告。 |
2月18日 | 広島を出立。 |
3月12日 | 帰京。 |
伊東甲子太郎の行動 | |
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2月3日 | 広島に到着。 |
2月7日 | 小笠原長行、広島に到着。 |
〜 | 篠原と共に小笠原長行へ長州藩への処分寛大を訴える。 |
諸藩の志士と議論する。 | |
3月18日 | 広島を出立。 |
3月27日 | 帰京。 |
◇◇別の説◇◇
伊東・篠原の別行動説は、篠原泰之進の『秦林親日記』に近藤の行動が一切記されていないことから来ているが、『新撰組始末記』(西村兼文)には、近藤と同日に帰京したという説も記されている。
篠原の手記には、近藤と伊東の対立を強調している衒いがあり、伊東別行動も、対立を強調するために仕立て上げられた可能性も指摘されている。