生誕〜家督相続
小田原城主・北条氏綱の嫡子として生まれる。北条早雲(伊勢長氏)の孫。
戦国関東に覇権を維持した小田原北条氏(後北条氏とも)の第3代。祖父・早雲が生前は北条姓を名乗らなかったことから、幼少時は伊勢姓であった思われる。
のちに、今川義元の妹を正室として迎える。
『北条記』に「器量骨柄父を超え、謀かしこく、弓馬の業も達者なり。」と記されており、
享禄3年(1530)、16歳のとき、扇谷上杉朝興との戦いで初陣し、武蔵国小沢城の本陣の大将として大勝利を収めるなど、若い頃から才気を発揮した。
天文10年(1541)7月、氏綱の逝去により27歳で家督を継ぐ。この際、父より国主としての教えである五箇条の書置を受けたという。
河越夜戦
氏康は今川、武田、里見らを向こうに回し、勢力拡大に奮闘する。
その最中の天文14年(1545)、扇谷上杉朝定は、関東管領・山内上杉憲政、古河公方・足利晴氏と手を組み、朝興の死後北条方に渡っていた河越城を包囲した。
更に、今川義元が上杉憲政と結び、先代より支配を争ってきた河東地域へと出兵してきた。
今川方には武田軍も参加していたが、越後の長尾氏との対決を見据えた武田晴信(武田信玄)は、
北条と結ぶことの利を考え講和を斡旋。氏康は占領していた駿河の一部を返還することを条件に今川と講和を結ぶ。
そして翌天文15年(1546)4月、8万の大軍に包囲された河越城に精鋭8千を率いて出陣し、見事な夜襲で朝定を討ち取り大勝利を収め、武蔵平定をほぼ完了した。(河越夜戦)
三国同盟
その後も氏康は関東に勢力を広げ、天文23年(1554)2月には義元の隙を突いて駿河に侵入した。
しかし、その頃、北条に追われた上杉憲政が長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼ったことから、
これとの対立が浮上してきており、上杉と敵対関係にあった武田、西へと進出したい今川と、3者の利害が一致し、
義元の軍師・太原雪斎の仲介により甲相駿三国同盟(善得寺の会盟)が成立する。
この際、氏康は娘・早河殿を義元の嫡男・氏真に、信玄の娘・黄梅院が氏康の嫡男・氏政にと相互に婚姻関係を結んでいる。
西の憂いをなくした氏康は、同年11月、古河城を陥落させ、甥の義氏を古河公方に据え関東の支配権を確固たるものにする。
永禄2年(1559)には、家督を子の氏政に譲ったが、その後も「御本丸様」として院政を行った。
上杉・里見との戦い
永禄4年(1561)2月、関東の諸家の要請を受けた長尾景虎が関東へ兵を起す。その数10万を超す大軍であったという。
それに対して氏康は各支城に籠城を指示し、自らは小田原城に籠もり、一切相手をせず相手の疲弊を待った。
大軍とはいえ寄せ集めの長尾軍は、士気の低下や補給の問題などを露呈し、
同時に武田軍が挟撃の素振りを見せたため、退却を余儀なくされた。(第一次小田原防衛戦)
永禄7年(1565)1月、関東管領となった上杉謙信の要請を受けた里見義弘が対北条の兵を起した。氏康も下総に
出陣し、父代からの宿敵は国府台で激突した。その激戦は双方合わせて9千人もの戦死者を出し、重臣・遠山景綱を失うなど北条方の被害も甚大であったが、
得意の夜襲により勝利を収め、下総の支配を手中にした。
武田信玄との戦い
今川義元が桶狭間で討たれた事により、三国同盟は既に形骸化していたが、永禄10年(1568)に武田軍が駿河に侵攻、
氏康がそれに援軍を送ったことで完全に破綻する。信玄と氏康の直接対決は現実のものとなり、翌永禄11年(1569)に武田軍が小田原城を包囲する。
しかし、氏康の籠もる小田原城の守りは堅く、武田軍は撤退する。(第二次小田原防衛戦)
これを受けて氏康は次男・氏照に武蔵の兵2万を率いさせ三増峠に急行させたうえ待ち伏せさせ、自らも小田原勢1万を率いて武田軍を挟撃しようという追撃作戦を展開した。
しかし氏照軍の動きは信玄に察知され、氏康の到着を待たずして敗れ去り、惜しくも武田軍殲滅の機会を逃した。
同年11月、氏康は七男・氏秀と上杉家重臣・柿崎景家の子を送りあうことで上杉謙信と越相同盟を締結したが、
上杉方が援軍の条件に占領地の返還などを求めてきた為、あまり機能していなかった。
内政手腕
このように、信玄・謙信を相手に一度も敗れることなく争うなど、並外れた武略を示した氏康であるが、 その善政ぶりも知られており、領内に隅々まで行き届いた検地、基本台帳の作成、税制改革など優れた内政手腕を発揮し、支配体制を堅固なものとした。
死去
慶長17年(1571)病の床につき、10月3日、死去。
享年57。
死因は中風であったといわれる。