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油小路の変と龍馬暗殺


坂本竜馬・中岡慎太郎暗殺

慶応3年(1867)10月14日、大政奉還がなされた。

その立役者の一人であった坂本龍馬は各方面から命を狙われる存在となっていた。

11月12日頃、龍馬は入京以来一週間ほど滞在した京都河原町三条の酢屋から近江屋に移り、その土蔵に潜伏した。

その頃、御陵衛士隊長・伊東甲子太郎と藤堂平助が近江屋の龍馬の元を訪れ、あなたの命を狙うもの(新選組・見廻組とも)がいるので、土佐藩邸に移ったほうが良いと忠告している。

11月15日、この日の京都は冷え込みが厳しかったという。
風邪気味であった竜馬は、前日より、隠れ家としていた土蔵から近江屋の母屋の二階の八条の奥座敷に移っていた。

午後6時ごろ、盟友である中岡慎太郎が、土佐藩士宮川助五郎の処遇を相談するために竜馬の元を訪れた。
その後、龍馬・慎太郎の二人で幾許か密談が行われた後、岡本健三郎、菊屋峰吉が訪れしばらく4人は談笑していた。
午後8時半頃、龍馬が「軍鶏が食いたい」というので、菊屋峰吉は軍鶏を買いに、同時に所用があるという岡本健三郎も近江屋を出た。
残った龍馬と中岡は、倒幕論について熱く議論を始めた。別室では、龍馬の用心棒で元力士の山田藤吉が楊枝作りの内職をしていた。


午後9時頃、近江屋に来客があった。その応対に藤吉があたり、訪問者は十津川藩士であると名乗ったらしい。
名刺を受け取り、取り次ごうとした藤吉が音を立てて倒れた。
龍馬はその物音を聞いて「ほたえな!(さわぐな!)」と叫んだという。
そこに、3名の男が駆け上がり、龍馬と中岡の居る部屋へと入ってきた。
龍馬は、身構えるや否や前頭部を斬りつけられた。
慎太郎は別の男に後頭部を斬りつけられた。
そのあと龍馬は、振り向いて愛刀に手を伸ばしたところを右肩から刀を受け、振り向きざまに三の太刀を、鞘ごと盾にし受けたが、その刃は前頭部に届き、それが致命傷になったという。


慎太郎は短刀を手に戦ったが、全身に11箇所とも26箇所の傷を浴び、これでよしと思った刺客たちは、その場を去ったという。

そのあと龍馬は「俺は脳をやられた、もう見えん」との言葉を最期に前のめりに倒れたという。

中岡慎太郎は、その場の状況についての証言を残した後、17日、息を引き取った。

16日に亡くなった藤吉を含めた三人の葬儀は、18日の午後に近江屋でとり行われ、遺体は東山高台寺に葬られた。


中岡の証言で刺客が「こなくそ」という伊予弁をさけんだ事、
現場に残されていた刀の鞘が、伊東甲子太郎の証言により原田左之助のものであるとされた事、
もう一つの物証である下駄が新選組御用達の料亭「瓢亭」のものであったことなどから、暗殺は伊予松山出身の原田左之助を含む新選組の仕業であることが疑われた。
実際に大目付・永井尚志が調査し近藤勇も訊問を受けたが新選組には全員アリバイがあり 嫌疑は一応晴れた。
しかし、土佐藩と薩摩藩は、飽くまで新選組が犯人であると主張し続けたという。




油小路の変 (伊東甲子太郎、藤堂平助の最期)

新選組から離脱した伊東甲子太郎ら御陵衛士(高台寺党)は、表面上の友好関係を保っていたものの、裏では近藤勇を暗殺するという計画を企てていた。
しかし、その計画は間者として送り込まれていた斎藤一により、新選組側に漏れていた。
斎藤は11月10日、御陵衛士を脱し、山口次郎と名を変え新選組に復隊。
御陵衛士との約定により、表立って新選組に戻ることは出来ないので、紀州藩公用人・三浦久太郎の元に身を潜め、18日に近藤に呼び戻され新選組に戻っている。

情報を手に入れた近藤らは先手を打ち、伊東をおびき出し忙殺することを決めた。
坂本竜馬と中岡慎太郎の葬儀が行われた11月18日午後、伊東甲子太郎は近藤勇の妾宅に招かれた。
同士らは、罠であるからと伊東を引き止めたが、伊東は単身、醒ヶ井にある近藤の妾宅を訪れた。

伊東は歓待を受け、すすめられるがままに酒を飲み、亥の刻(午後10時)過ぎ、次の約束をして妾宅を後にした。

その酔った帰り道、油小路木津屋橋付近に差しかかった時、新選組からの刺客に襲撃された。
そして、大石鍬次郎の槍に首を貫かれたのが致命傷となり、実相山本光寺逃げ込もうとしたが、門前で息絶えた。
享年33。


しかし新選組の企みは、そこまででは無かった。
伊東の亡骸は駕籠に乗せられ、油小路七条に放置された。
これを囮に、遺体を引き取りに来た御陵衛士を殲滅しようというのが狙いである。

果たして子の刻(午前零時)頃、急報を受けた7人の御陵衛士が馳せ付けた。
鈴木三樹三郎、篠原泰之進、服部武雄、藤堂平助、加納鷲雄、毛内有之助、富山弥兵衛の7人、その時高台寺の屯所にいた全ての衛士である。
彼らが伊東の遺体を運ぼうとしてその時、3方向から30名以上の黒装束に頭巾を被った男達が躍り出てきた。
新選組である。
鈴木・篠原・加納・富山は即座にその場から脱出したが、残りの服部・藤堂・毛内は、その場に踏みとどまり新選組と対峙した。

このうちの一人、藤堂平助は試衛館以来の同志である。
近藤は永倉新八らに、藤堂は助けてやりたいと密かに告げており、永倉らは藤堂を逃がそうと道をあけた。
それに気付いた藤堂が、その場を脱しようとしたその瞬間、事情を知らない平隊士・三浦常次郎が藤堂の背中を斬り付けた。
結局、藤堂は向き直って刃を交えたが、全身に刃を受け討ち死にした。
享年24。

そして毛内も討死。
一人残った服部武雄は両手に二刀流の剣を握り、鬼の形相で最後まで奮戦したが多勢に無勢、
最後は原田左之助の槍に仕留められ命を落とした。

脱出した鈴木ら4名は薩摩藩邸に逃げ込み匿われている。

翌朝、現場は血肉の飛び散っていたという。

伊東・藤堂・服部・毛内の遺体は、そのまま数日放置された後、
満月山光縁寺に葬られ、
翌慶応4年(1868)2月13日、泉湧寺内戒光寺に改葬された。


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