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天満屋事件


坂本竜馬暗殺から遡ること7ヶ月。
慶応3年(1867)4月23日、紀州藩船「明光丸」と海援隊の「いろは丸(伊呂波丸)」が、瀬戸内海備後鞆ノ津沖を航行中に衝突して、いろは丸が沈没するという事件が起こる。
この事件で海援隊隊長・坂本竜馬は紀州藩に多大な賠償金を突きつけた。
そして、談判の結果、紀州藩は約8万両もの賠償が命じられた。
結果、海援隊と紀州藩には禍根が残されることとなる。

そして、11月15日、坂本竜馬と陸援隊隊長・中岡慎太郎が京都・近江屋において何者かに暗殺される。
土佐の同志達は紀州藩周旋方の三浦休太郎の意を受けた新選組の襲撃と信じ込み仇討ちを決意した。

集まった同士は海援隊の陸奥宗光、沢村惣之丞ら、陸援隊の岩村精一郎、松島和助ら、十津川郷士の中井庄五郎ら総勢16名。

一方、三浦のほうでも、彼らの不穏な動きを察知しており、会津藩を通じ新選組に護衛を依頼していた。
そして12月7日戌の刻(午後8時)頃、斎藤一、大石鍬次郎、宮川信吉、中村小次郎、中条常八郎、梅戸勝之進、船津釜太郎の7名(メンバー諸説あり)が三浦の宿舎、油小路通り花屋町の天満屋に出向いた。

斎藤らは天満屋の中二階の三浦の部屋で酒を飲んでいた。
亥の刻(午後10時)頃、陸奥宗光らが来客を装い天満屋に踏み込んだ。
最初に踏み込んだのは居合いの達人・中井庄五郎。
中井は三浦の部屋に突入すると、瞬く間に三浦に初太刀を与えた。
これで三浦は右頬に軽傷を負っている。
これに部屋に居た新選組隊士らが斬りかかり乱闘が始まった。
16対7。新選組の劣勢である。

斎藤らは三浦を安全な場所に逃がした。
新選組の中村小次郎は敵と組み合い中庭の池に落ちたという。
斎藤は敵に斬りつけられそうになったところを、梅戸勝之進がその敵に組み付いたため救われた。
しかし、梅戸は重傷を負った。

斎藤らは一斉に外に飛び出すと狭い路地に敵を誘い込み戦った。

激闘の末、新選組では近藤勇の従兄弟・宮川信吉が即死。
重傷を負った船津釜太郎が数日後死亡した。
浪士側の死者は最初に踏み込んだ中井庄五郎1名であった。

三浦休太郎を護衛するという任務は達成したものの、新選組にとって勝利とは言いがたいものであった。

これが新選組の京都での最後の戦いとなった



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