大政奉還と新選組
四候会議
慶応3年(1867)3月5日、幕府は討幕派の動きへの対策のため、四賢君と呼ばれる薩摩藩主後見役・島津久光、前宇和島藩主・伊達宗城、前土佐藩主・山内容堂、前越前藩主・松平春嶽を京に呼び寄せ、会議を開催した。「四候会議」である。
しかし、既に薩長同盟を結び、公武合体から倒幕に方針転換していた薩摩の島津久光は、他の3候を説いて幕府の執政を追及した。
そんななか、6月17日の幕府親藩会議に参加した近藤勇は、「親藩であるならば、たとえ幕府に非があろうとも、それを庇護するべきであるのに、他藩と同じようにおっしゃるとは、どういったおつもりか」と、薩摩藩と一緒になって幕府を咎める松平春嶽を批判している。
大政奉還
土佐藩・幕府側の動き
薩摩藩・長州藩側の動き
この頃、薩摩主導による倒幕の流れに遅れをとる土佐藩で、起死回生ともいえる提言が参政・後藤象二郎によってなされていた。
坂本龍馬によって構想された「船中八策」。幕府は政権を朝廷に返上し、徳川家は一大名として新政府に参加するという「大政奉還」策である。
この提言は土佐藩の方針として採用され、10月3日、後藤象二郎が上洛し山内容堂の名による建白書を、老中・板倉勝静に提出した。
坂本龍馬によって構想された「船中八策」。幕府は政権を朝廷に返上し、徳川家は一大名として新政府に参加するという「大政奉還」策である。
この提言は土佐藩の方針として採用され、10月3日、後藤象二郎が上洛し山内容堂の名による建白書を、老中・板倉勝静に提出した。
しかし、それと同時に薩摩藩も武力倒幕への動きを強めており、土佐藩による大政奉還建白に先立つ9月20日、長州藩との出兵同盟を締結していた。
そして、「討幕の密勅」を得るための朝廷工作をしつつ、芸州藩との連携を進め、10月8日、薩長芸出兵同盟を確認するとともに、倒幕派の公卿に出兵の宣旨を要請している。
そして、「討幕の密勅」を得るための朝廷工作をしつつ、芸州藩との連携を進め、10月8日、薩長芸出兵同盟を確認するとともに、倒幕派の公卿に出兵の宣旨を要請している。
一方、土佐藩の建白を受けた徳川慶喜は、既に大政奉還の決断しており、10月12日に在京の幕府高官を、13日に10万石以上の在京諸藩の重臣を招集し、大政奉還を伝達した。
同じ13日、朝廷側では長州藩主親子の官位復旧と入朝を許す宣旨が、中山忠能から岩倉具視を経て長州藩に下された。
そして、13日付で薩摩藩島津久光宛に、翌14日付けで長州藩毛利敬親父子あてに、正親町三条実愛より討幕の勅命が下された。
しかし、これは天皇の直筆でもなければ、中山忠親・正親町三条実愛らの花押もない、天皇の感知しないところで作られた、まったくの偽勅である。
それでも、薩摩藩に内在する穏健派を動かすのには十分効果があったようだ。
そして、13日付で薩摩藩島津久光宛に、翌14日付けで長州藩毛利敬親父子あてに、正親町三条実愛より討幕の勅命が下された。
しかし、これは天皇の直筆でもなければ、中山忠親・正親町三条実愛らの花押もない、天皇の感知しないところで作られた、まったくの偽勅である。
それでも、薩摩藩に内在する穏健派を動かすのには十分効果があったようだ。
その時、新選組では朝廷に何らかの動きを察知していたようで、13日には中山忠能邸を監視、14日には近藤が正親町三条実愛邸を訪れ、大久保利通らと面談している。
しかし、事の真相に迫るまでには至らなかった。
しかし、事の真相に迫るまでには至らなかった。
14日,徳川慶喜は大政奉還の許可を求め上奏し、翌15日に、朝廷は大政奉還の勅許を下した。
果たして、大政は奉還され、260年以上続いた徳川幕府は幕を閉じた。
慶喜が大政奉還を決断したのは、武力衝突を避けたのと共に、徳川家が今後も政権の中心に居続ける自信があたっからである。
事実、政権は旧幕府に委任され、新選組をはじめとする周囲の状況も、従来通りであったのだが・・・
大政奉還後に慶喜主導の元、開催が予定されていた諸侯会議は、多くの藩から打ち捨てられ、政局は危うさ増していく一方であった。