近藤批判-近藤の増長-
池田屋事件後、新選組を幕府直参とする動きがあった。
近藤には両番頭次席という将軍に御目見得の許される身分が示された。
新選組が辞退したのかどうかは不明だが、実現には至らなかった。
また、禁門の変の後の8月3日、池田屋事変の感状と褒賞金600両が会津藩を通じて、幕府より新選組に下された。
これらの事は近藤に、新選組の活躍が世に認められたことをはっきりと実感させた。
しかし、近藤はそこで舞い上がってしまっていた。
近藤は前年4月、松平容保への浪士組の上覧試合の後にも慢心から芹沢ら水戸派と争いとなり、井上松五郎に「近藤、天狗になり候」と評されている。
本来が増長しやすい性格であったようである。
その結果同年8月下旬、永倉新八を筆頭に原田左之助、斎藤一、尾関雅次郎、島田魁、葛山武八郎の6名は「非行五箇条」として近藤批判の建白書を京都守護職・松平容保に提出することになる。
内容は、「近藤は芹沢暗殺以来、専横を欲しいままとし、同士を臣下のように扱い、意に従わない場合は剣に訴えるという状態にある。
そのため同士には脱走もしくは反抗し、新選組崩壊を招く恐れがある。」
「これらに対し近藤が少しでも申し開きできるのならば、我々は切腹する。弁明できないのならば、近藤に切腹を申しつけられたし」
という強いものであった。
会津藩は近藤と永倉らを呼び寄せ和解をさせ、一応は納まった。
しかし、9月6日、葛山が切腹、首謀者である永倉も謹慎となった。
近藤と永倉の間に埋めることの出来ない溝を作っていた。