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伊東甲子太郎 入隊


元治元(1864)年9月5日、近藤勇は、永倉新八、武田観柳斎、尾形俊太郎を引き連れ江戸に向かった。

一向に実行に移されない長州征伐のため将軍・家茂上洛を要請するためであるが、目的はもうひとつあった。

新選組では、戦死者、脱走者が相次ぎ、50〜60名いた隊士が、40名を切ってしまっっていた。
脱走者のほとんどが西国の者であったことから、近藤は「兵は東国に限る」という持論を持ち、自ら隊士を募ることになったのである。

近藤らに先立って、藤堂平助が江戸入りしていた。
深川佐賀町で北辰一刀流の道場を開く伊東大蔵を新選組に勧誘するためのつなぎを付けるためである。
藤堂は上洛前、試衛館の食客であったが、それ以前に伊東の弟子だった時期があった。
そして、近藤は伊東と面会することになる。

近藤は、新選組局長として幕府の役人と接する中で、自らの出自の低さと、政治力、学問の浅さを体感していた。
そこに、江戸で北辰一刀流の道場を開く者がいる。容姿端麗で学問もある。
実際に面会した伊東は温厚で、教養にあふれていた。
伊東の口をつく「水戸」が気にかかったが、「新選組に必要な人物」と近藤は認識した。

一方、伊東は、かねてより京に上り、尊皇攘夷のために尽くす機会を求めていた。
しかし、伊東は十代で故郷を出た後、水戸に暮らしていたため、熱烈な勤皇家であった。
新選組を預かる会津藩は徳川親藩であり、公武合体派の中心的存在である。
また、新選組を束ねる近藤、土方歳三は天領(この場合は徳川家の直轄地)多摩の生まれで佐幕思想が強い。したがって、当然、新選組も佐幕色が強いのである。
しかし、伊東は、自身が世に出て何かを成し遂げるには、この時を逃してはならないと考え至り、新選組への入隊を決心した。

「尊皇攘夷」という、互いが相通ずる点に活路を見出し、近藤は、礼を尽くして伊東を迎えた。


当時、甲子の年には改元が行われており、この年も文久から元治に元号が改まっていた。
伊東はそれにちなみ、名を甲子太郎と改めた。伊東甲子太郎の誕生である。

伊東は実弟の三木三郎、それに篠原泰之進、加納道之助、服部武雄、佐野七五三之助、内海次郎、中西昇の同士7名と共に東海道を進んだ。

一行が近藤の待つ京都に到着したのは、出発から半月以上経った12月の初めであった。


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