禁門の変(蛤御門の変)
前年の8月18日の政変で京を追われた長州藩は、失地回復のため上洛の準備を進めていた
6月13日、池田屋事件の報に触れた長州藩は、2日後の15日には京都に向けて軍を出発させた。
長州藩は朝廷へ赦免を願い出るが拒否され、19日に進軍を開始。伏見、嵯峨天竜寺と軍を進め、25日には山崎に陣を張った。
長州藩に備えて新選組に出陣命令が出されたのは24日。その日のうちに鴨川の九条河原に布陣した。
長州軍は総指揮官・来島又兵衛の討死で総崩れとなり、久坂玄瑞、入江久一らも自刃して果てた。
新選組は会津藩兵・桑名藩兵らと共に天王山に籠る残党の掃討戦に出撃したが、新選組が到着したときには、久留米脱藩の神官・真木和泉をはじめとする脱藩浪士17名は集団自決していた。
その後、新選組は大坂などで7月下旬まで残党狩りを行なった。
長州藩は、この戦いで御所方面に向けて発砲したとして「朝敵」の烙印を押されることとなった。
朝廷は諸藩に長州藩征討の命を発した。
しかし、全く進展しない状況に業を煮やした近藤をはじめとする新選組は、会津藩の許しを得て、幕閣へと上申するため江戸へ下向することとなった。
9月5日、近藤は頭脳的補佐として尾形観柳斎と武田観柳斎、そして老中である松前藩主・松前崇広との橋渡し役として永倉新八を連れ江戸へたった。
そして、松前崇広に対面を果たし将軍上洛を進言した。