長州征伐へ向けて
禁門の変で長州藩は朝的の烙印を押されることとなった。
禁裏守衛総督の一橋慶喜は、元治元年(1864)7月23日、長州征討の勅許を受け、諸藩に出兵の準備を命じた。
これを受けて、新選組でも長州出陣に備えた再編成が行われ、「行軍録」という形で記録されている。
その中で気にかかる人物をあげてみる。
山南敬助 | 池田屋以前から表から名前が消えている。病気か怪我であったと思われる。 |
---|---|
永倉新八 | 先の局長批判のため謹慎中であると思われ、名前がない。 |
藤堂平助 | 先の隊士募集以来、江戸に滞在中。池田屋で受けた傷の療養に当たっていたともいわれる。 |
伊東グループ | |
伊東甲子太郎 | 謹慎中の永倉に代わり、沖田に次ぐ二番組長の座に着く。 |
三木三郎 | 平隊士扱い。井上源三郎の三番隊に属す。 |
篠原泰之進 | 名前がない。この時期入隊を躊躇っていたらしい。 |
加納鷲雄 | 平隊士扱い。谷三十郎の八番隊に属す。 |
服部武雄 | 平隊士扱い。尾形俊太郎の五番隊に属す。 |
佐野七五三之助 | 平隊士扱い。斎藤一の四番隊に属す。 |
内海次郎 | 平隊士扱い。谷三十郎の八番隊に属す。 |
中西昇 | 平隊士扱い。斎藤一の四番隊に属す。 |
また、戦時下の掟として「軍中法度」が制定されたのもこの時期のことである。
しかし、幕府の腰は重く、実際に兵が動いたのは11月に入ってからのことである。
11月1日 | 征長総督の徳川慶勝(全尾張藩主)が大阪を出発する。 |
11月16日 | 征長軍本隊が広島に到着する。 副総督の松平茂昭(越前藩主)小倉へ進軍する。 |
一方で参謀に任ぜられた西郷隆盛は長州藩に対して降伏を勧告。
開戦の危機に臨んで、長州藩は家老の国司信濃、福原越後らの切腹、藩主・毛利敬親とその父。斉広の蟄居、そして山口城の破却という条件をのみ降伏、開戦を避けた。
その結果、長州出陣に備えた新選組には出陣命令が下ることはなかった。
しかし、長州藩内では高杉晋作をはじめとする完全恭順に反対する勢力があった。
高杉らは12月16日未明、下関の藩会所を襲撃し藩政府に宣戦布告した。
そして、翌慶応元年一月に戦って勝利し、反論を倒幕に統一し、武装恭順と称して水面下で防備を固めた上で表面上の恭順を装った。
対する幕府内にも処分が寛大すぎたと批判があり、長州の対幕府の動きを見た幕府は長州再征の機会をうかがうこととなる。
そして、新選組局長・近藤勇は新たな働きの場を得ることになるのである。