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甲州勝沼の戦いと永倉・原田の脱退


土方の援軍要請

慶応4年(1868)3月5日、甲州勝沼に到着した甲陽鎮撫隊に驚くべき報せがもたらされた。
彼らが入城して新政府軍を迎え撃とうと向かっていた甲府城に、既に新政府軍の中山道先鋒総督府軍が到着し、甲府城を奪い取っているというのである。

その報せに隊内は動揺した。
特に戦争に触れたことのない江戸で参加した矢島の配下の者の多くは脱走してしまい、甲陽鎮撫隊は佐藤彦五郎率いる春日隊を含めて121名まで減少した。
このままでは、新政府軍と戦うのは不可能である。
そこで近藤勇は、すぐさま土方歳三を援軍要請の為に江戸へ向かわせた。
「菜葉隊」と呼ばれる旗本の一隊が、援軍に来ることになっていたのだが、この日まで出陣していなかったのだ。

甲州街道を駆け戻った土方は、日野で洋装から着物に着替え、早駕籠で江戸へと急いだ。
土方のその後の詳しい足取りは不明であるが、「菜葉隊」を含め、甲陽鎮撫隊に援軍が差し向けられることはなかった。

甲州勝沼の戦い

一方、土方を送り出した近藤は大久保剛の名で新政府軍に、甲陽鎮撫隊は敵対するものではないという使者を出した。
しかし、新政府軍は、これを時間稼ぎと判断し、鎮撫隊に対して攻撃を開始した。

鎮撫隊は、はじめ山頂にある大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家縁の寺宝があるということを住職から聞かされ、大善寺を諦め近くの柏尾山中腹に陣を張った。
そして甲州街道に関門を築き、その近くの観音坂に原田左之助の隊、北方の菱山に永倉新八の隊、南方の岩崎山に斎藤一の隊と春日隊を配置し、新政府軍と戦った。

しかし、敵の兵力は1400。
120名ほどの鎮撫隊も懸命に戦ったが、兵力の差はあまりにも大きく、次第に士気も低下し、わずか2時間ほどで甲陽鎮撫隊は江戸方面へ散り散りとなり敗走することとなった。

永倉・原田の離隊

勝沼より東走した近藤は、7日相模国に入った吉野で土方の要請している援軍を待ち、陣を整えようとしていた。
しかし、戦意の喪失した隊士達は吉野にとどまらず東走を続けた。
隊士たちの後を追い、相模と武蔵の国境付近の小仏で隊士の集結をしようとするが、小仏に至っても隊士たちの姿はなく、八王子でやっと追いついた。
永倉新八と原田左之助は、隊士たちに局長の命に背いたことの真意を問いただした。
すると隊士たちは、「もはや援軍は見込めないので、江戸に引き上げて兵を募集し、再度出兵するべきです。それならば局長に従います。」と答えた。
永倉と原田は、隊士たちの意見を手に、近藤の待つ吉野へと引き返した。

8日、近藤は、土方と再会する。
永倉・原田も合流したところへ御三卿の一人・田安中納言から、早々に引き上げよとの使者があり、揃って八王子まで引き上げた。
永倉らが近藤らに、隊士たちの意見を伝えたところ、近藤と土方もこれに従って江戸に退却することに決めた。
そして、近藤は、悪化した右肩の治療の為もあり、永倉と原田に隊士たちのことを任せ、江戸本所の大久保忠恕邸と決め、土方とともに馬で江戸へ走った。
このとき近藤は、「同士の儀は永倉・原田に任せる」という。
そのことに関して永倉らは、近藤が甲陽鎮撫隊の敗戦の責任をとって、永倉と原田に指揮権を委譲したものだと捉えてしまったようである。
この食い違いが、分裂の元となる。

永倉・原田が大久保邸に到着すると、そこにいたのは島田魁ら10名ほどであり、近藤はいなかった。
他にいた20名ほどの隊士は指揮官のいない状態に不安を覚え、離散してしまっていたのだ。
島田らの話によると、近藤は今戸の銭座にいるという。
そこで、一同は銭座へと向かう。
しかし、そこにも近藤はいなかった。
永倉らは、更に和泉橋の医学所へと向かったが、そこにも近藤はいなかった。
一同は、近藤に対する不満が爆発した。
新選組崩壊である。

そこで、永倉と原田は松本良順の元へ行き、事情を話し300両の軍資金を借用した。
そして、医学書に戻り、離脱を決めた同士らの収拾に努めた。
そして一同の考えを汲み、新組織を結成し、近藤が同意するなら共に、しないなら自分達だけで会津に向かうことを決め、翌日、医学所にて近藤と面会する。

永倉らの意向を聞いた近藤は、自分抜きで後事が決められたことに怒りをあらわにし、「我が家来に相成るなら同志いたすべく、左様なければ是非なく断り申す」と謝絶した。
この近藤の言葉は、一旦は瓦解した同士を収拾する労をとった永倉・原田には我慢の出来ないものであった。
永倉・原田に志を同じくするものたちも、近藤の言葉に腹を立て、
「左様なれば是まで長々御世話に預り有難く存ずる。」
と、これまでの恩に対し謝礼をし、近藤の元を去っていった。

ここに、試衛館以来の同志、永倉新八・原田左之助が新選組から離脱した。



靖共隊

同調する7人の隊士たちと共に、新選組を去った永倉と原田は、永倉の旧友で旧幕臣の芳賀宜道の元を訪れた。
そして芳賀と相談の上、主戦派の旧幕臣や脱藩浪士ら50人程を集め、『靖共隊』という新組織を結成した。
隊長には芳賀宜道、副長には永倉・原田が就任した。
また、同調してきた元新選組隊士たちも、それぞれ役職を与えられている。
隊長芳賀宜道
副長永倉新八・原田左之助
仕官取締矢田健之助
伍長林信太郎・前野五郎・中条常八郎・松本喜次郎
歩兵取締林正吉・中山重蔵
     水色:元新選組隊士

靖共隊はその後、旧幕府第七連隊と合流し、その後は会津戦争へと向かっていく。


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