| HOME | 掲示板 | 御記帳処 | リンク | サイトマップ | 管理人 

竹中半兵衛

竹中半兵衛 たけなか はんべえ

生没年:1544-1579 出身:美濃国菩提山 竹中重元

幼名:別名等:竹中重治。

官職:


生誕〜稲葉山の変

天文13年9月11日、美濃国不破郡の豪族・竹中遠江守重元の子として生まれた。父は斎藤道三に属し石平城を本拠とする6千貫の領主であった。
父の後を継いだ半兵衛重治は菩提山城主として1万石を領有していた。

斎藤家は道三の子・義龍も没し、その子・龍興の代となっていた。龍興は凡庸な上、一部の側近等を重用するなど傍若無人な振る舞いが目立ち、 家臣の信頼を失っていており、半兵衛は主家の行く末を憂いていた。

永禄7年(1564年)、再三の換言を聞き入れない龍興に対し、半兵衛はある行動に出る。 半兵衛は城詰めの弟・久作の、病気見舞いと称して稲葉山城に登城すると、 見張りの兵を斬り、合図をすると、待機していた舅の安藤守就らが城に押寄せ、わずか10数名で稲葉山城を奪取してしまった。
これを聞きつけた織田信長は、美濃攻略の足がかりにしようと半兵衛に使者を立てたが、 野心のない半兵衛はこれを断り、龍興に城を返した。

秀吉の軍師として

伝聞では、その後山中に隠棲し、秀吉が三顧の礼をとって軍師に迎え入れたとされるが、『三国志演義』に模倣した創作の色が強く、 実際は北近江の浅井長政に出仕し、信長の近江平定後、織田家に仕えた。 羽柴秀吉の所属となったのは元亀元年(1570)頃である。

その後は浅井氏攻略、中国攻略戦にも参加する。 播磨三木城攻めの最中、信長に謀反した荒木村重を説得に向かった僚友・黒田官兵衛が有岡城に拘留の身となってしまう。 これを官兵衛の寝返りと思った信長は、その子・松寿丸(のちの黒田長政)の殺害を命じた。 官兵衛の忠義を信じた半兵衛は松寿丸を菩提山城に匿った。これに、のちに救出された官兵衛は感涙し、黒田家の家紋を竹中家のものに改めたという。

しかし、この時既に半兵衛は病を得ており、官兵衛の帰還を待たずしてこの世を去った。
享年36。
死因は労咳(肺結核)といわれる。

誰もが惜しんだ、若すぎる死であった。
その最期に秀吉に対し「信長公は英知大才ありといえども温順ならずして気風偏なり」と、信長に仕える上での注進を残したという。 秀吉の陣中に半兵衛ありて、野に官兵衛ありと言われ、名軍師と語り継がれる半兵衛であるが、 その活躍は秀吉の伝説同様、後世の講談等で脚色された色合いが強いと見られている。



た行へ戻る 斎藤家へ戻る

武将名鑑HOME  新選組隊士名鑑  歴史館  参考文献  リンク  BBS  ご連絡
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送