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織田信長

織田信長 おだ のぶなが

生没年:1534-1582 出身:尾張国那古屋 織田信秀

幼名:吉法師別名等:織田三郎信長。藤原信長。平信長。

官職:上総介。弾正忠。右大将。死後太政大臣追贈。


誕生〜尾張統一


織田氏は斯波氏の守護代の家柄で、清洲織田と岩倉織田に分かれていた。
天正3年5月12日、信長は清洲織田氏の重臣で尾張で台頭してきた織田弾正忠信秀の次男として那古屋城に生まれる。
兄の信広が庶子(妾腹)であるため嫡男である。

幼い頃から気性が激しく、乳母の乳首を噛み切ったというエピソードが残されている。
天文15年(1546)、13歳で元服し翌年の三河大浜攻めで初陣を飾ったが、そのころの信長は半袴で腰にいくつも袋をぶら下げ、馬上であぐらをかいて柿や梨をかじるなど奇行が目立ち、周囲からは「うつけ者」と陰口を叩かれていた。

天文17年(1548)には、信秀と美濃の斎藤道三の和睦に伴い、道三の娘・帰蝶(お濃)との婚姻が成立、翌年3月、信秀の死により家督を継いだ。 しかし、信秀の法要で仏前に平服のままドカドカと進み出、位牌に香を投げつけるなど、信長の振る舞いは改まることはなく、ついには守役の平手政秀が腹を切って諫死するまでに至った。

家臣には信長に見切りをつける者が続出したが、それは真に信頼できる家臣を見極める為の信長の芝居であったとも言われている。 そして、二度に渡って反旗を翻した弟・信行を謀殺するなど、血で血を洗う国内の統一戦を経て、尾張一国をほぼ手中に収めた。

桶狭間〜美濃攻略


永禄3年(1560)5月、三河・遠江・駿河を支配下に置く今川義元が、2万5千の大軍を率い、尾張目掛けて西上の途につき、領内の丸根・鷲津城へと迫るの報せが届く。
迎え撃つ織田勢はわずか3千。家中では籠城論が体勢を占めたが、夜になり突如出陣を命じ、雨中、桶狭間において義元本陣を奇襲し、これを討ち、見事勝利した。

永禄4年(1561)、今川から独立した徳川家康と同盟し東の供えとし、 永禄7年(1564)には妹・お市を北近江の浅井長政に、翌年には養女を武田信玄の子・勝頼に嫁がせ、上洛への布石とした。
そして永禄11年(1568)、父依頼の悲願であった打倒斎藤氏を成し遂げ、美濃を手中に収める。
信長は斎藤氏の居城であった稲葉山を岐阜と改め、以降居城とした。

信長は、那古屋→清洲→岐阜→安土と、その勢力拡大につれ、居城を移している。 これは、人事面では秀吉・光秀らの重用、軍事面では兵農分離、鉄砲・長槍の積極採用、経済面では関所の廃止、楽市楽座の推進と、これまでの体制に拘らず合理性を求める信長らしさの顕れの一つと云える。

上洛


その頃、京都を追われ越前朝倉氏へ身を寄せていた足利義昭が、信長と遠縁にあたる明智光秀をつてに信長を頼ってきた。 信長は、その機を逃さず義昭を奉じて入洛し、義昭を将軍にし、自らは経済の要衝である堺、大津、草津に代官を置き、これを治めた。

信長の力で将軍の座についた義昭は、信長を父とまで詠い敬意を表したが、 自らが傀儡であることに気付き、信長の力が大きくなっていくと、これをねたんで、朝倉義景ら諸国と通じ、打倒信長を目論むようになる。
それに対し信長は、元亀元年(1570)正月、朝倉討伐の軍を動かすが、妹婿の浅井の裏切りに遭い決死の退却戦を強いられることになる。

信長包囲網との戦い


織田家は武田、本願寺、延暦寺、朝倉、浅井、三好ら信長包囲網に取り囲まれることになったが、 直ちに浅井攻めに転じ、徳川の援軍の力もあって姉川で浅井・朝倉軍を討ち破った。
そして翌元亀2年(1571)9月には、比叡山延暦寺を攻め、これを焼き打ちし僧侶達を皆殺しにした。

しかし元亀3年(1572)、信長に更なる危機が訪れる。 甲斐の武田信玄が大軍を率いて西上してきたのである。
浜松の家康からの援軍要請にも周囲を敵に囲まれた信長は3千の兵を差し向けるのがやっとで、織田・徳川連合軍は、三方ヶ原において武田軍に大敗した。

しかし、次は織田本領へ攻め入ってくるという矢先の天正元年(1573)4月、信玄が陣中に病没する。
幸運に恵まれた信長は、相変わらず策謀をやめない義昭を7月に追放し、室町幕府は幕を閉じた。
更に8月には小谷城の浅井、一乗谷城の朝倉を攻め、これを滅ぼした。

覇王への道


天正3年(1575)5月、信玄亡き後勝頼が率いる武田軍を、長篠において織田徳川連合軍が撃破。 鉄砲を効果的に用いた戦術で、武田軍に壊滅的な打撃を与えた。

天正4年(1576)には、次なる脅威・上杉謙信の進出に備える意味もあり、近江国琵琶湖畔の安土に新城建築を開始する。 丹羽長秀を奉行とし4年後に完成するこの安土城は、五層七重の天守閣を持つ、まさに覇王の城であった。
その間、信長は内大臣、右大臣と昇進する。元亀元年(1570)頃より「天下布武」の印を用いはじめ、常に天下を視野に入れてきた信長は、名実共に天下人の道を歩み始めることになる。

天正5年(1577)、足利将軍を追い落とした信長討伐に、ついに越後の龍・上杉謙信が立ち上がった。
謙信は、東国諸国に出陣を触れ、強大な勢力を持って西上しようと動き出したのである。
しかし、翌天正6年(1578)3月、謙信は出陣を前に急逝する。
信長はまたしても幸運により危機を逃れたのである。

多くの強敵に囲まれた信長であるが、その生涯で最も悩まされ続けてきたのが越前加賀、伊勢長島などで争った石山本願寺を本拠とする一向一揆であった。
一向衆は、信長と敵対する大名らと連携しゲリラ戦を展開してきたが、天正2年(1574)頃には織田軍によってほぼ壊滅に追い込まれ、天正10年(1580)、本願寺の石山退去を条件に和睦した。
信長は、その跡地に築城を開始。秀吉がそれを引き継いで完成したのが大坂城である。

天正10年になると、信長は毛利攻めを羽柴秀吉らに任せ、信忠を総大将とし武田討伐の軍を起こした。
長篠の戦いで多くの勇将を失った武田には既に力はなく、3月、天目山での勝頼自刃により名門武田氏は滅亡した。

本能寺の変


武田討伐の後、徳川家康と穴山梅雪が安土を訪れることになり、 信長は、その馳走役を明智光秀に命じた。
しかし、5月17日高松城を攻めている秀吉から援軍要請があると、急遽、途中で光秀の饗応役を解いて、援軍としての出陣を命じた。

家康らの饗応の後、信長は自らも中国攻めへ向かう為に上洛し、6月2日、僅かの供回りだけで本能寺へと宿泊した。
その夜、中国へと向けて先発したはずの明智勢が本能寺を急襲する。
信長は奮戦のあと、室内に戻り、炎に包まれてその生涯を閉じた。
享年49。

彼が好んだ幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年〜」に一年足らない生涯であった。

結果的には自らの激しい性格故に命を落とした結果となったが、
信長の功績は絶大で、信長が生きていたら日本の近代化は100年早まったであろうとまで言われている。


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