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足利義昭

足利義昭 あしかが よしあき

生没年:1537-1597 出身:山城国京 足利義晴

幼名:別名等:一乗院覚慶。足利義秋。昌山道休。

官職:征夷大将軍(室町幕府第十五代)。


生誕

天文6年11月3日、室町幕府第12代将軍足利義晴の子として生まれる。母は近衛稙家の娘。
幼い頃より興福寺一乗院に入り、覚慶を名乗る。

流浪生活

永禄8年(1565)、彼の兄で第13代将軍の足利義輝が三好三人衆や松永久秀に殺されると、 覚慶も捕われの身となり奈良に幽閉されるが、兄の遺臣・細川藤孝らに救出される。
還俗して足利義秋と名乗りった彼は足利将軍家再興を目指し、近江、若狭など諸国を点々とし、永禄9年(1566)8月29日、越前の朝倉義景の元に走る。 上杉輝虎(のちの上杉謙信)、武田信玄ら諸大名に助力を求める中で、 明智光秀の尽力により、当時勢いにのっていた織田信長の協力を取り付けた。

将軍の座

そして永禄11年(1568)9月、信長に奉じられて上洛を果たし、足利義昭と名を改め、ついに室町幕府第15代将軍の座についた。 義昭は、「御父織田弾正忠殿」と記した感状を与えるなど、心から信長に感謝した。

信長との対立

しかし信長と義昭の蜜月の時代は長くは続かなかった。「天下布武」の野望を抱く信長にとって、古い権威などは利用するだけの代物であったのだ。 そして永禄12年(1569)、信長は足利将軍家の権限を拘束する『殿中御掟』という九ヵ条の掟書を発した(のちに7カ条追加)。
将軍家としてのプライドだけは高い義昭が傀儡でいることに我慢できるはずもなく、 義昭は石山本願寺顕如をはじめとして朝倉義景浅井長政、武田信玄上杉謙信らに信長討伐の檄文をばら撒き、信長包囲網を形成し信長に対抗した。

そして天正元年(1573)2月には朝倉、武田らと図り対信長の兵を挙げた。しかし頼みの武田軍は動かなかった。 義昭はなすすべなく、4月、二条城で織田の大軍に包囲され、正親町天皇の勅命により講和し、信長の許しを得た。
そして、その直後信玄が死す。信長包囲網は完全に瓦解した形となったのだが、信長に対する憎しみに燃える義昭は7月、山城国槇島城で再び兵を挙げた。
しかし信長に敵うはずもなく、義昭は二歳の息子を人質に出して信長に降伏した。信長も二度目の今度ばかりは許さず、義昭は河内へと追放され、室町幕府は自然と消失していく。

晩年

追放された義昭は、若江城に入った後、普賢寺で剃髪し、昌山道休と号して謹慎した。
しかし、その後も信長への恨みは収まらず、毛利家に世話になりながらも諸国に決起を促す文を送り続けたという。

天正10年(1582)、信長が本能寺に撃たれ、羽柴秀吉が毛利を傘下に入れると、 義昭もこれに服属し、1万石の所領を与えられ側近として秀吉に仕えた。朝鮮出兵の文禄の役に際しては肥前名護屋に従軍している。
慶長2年(1597)8月28日、大坂にて没す。
享年61。



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